ベトナム戦争の終結を世界に印象付けた映像
1974年4月30日 北ベトナムの戦車部隊がサイゴンの大統領官邸に突入
ベトナム戦争はテレビで映像が伝えられた初めての戦争
ベトナムの現実はアメリカ社会を揺さぶった
戦争の是非をめぐって意見が対立 様々な価値観が崩壊した
ベトナム戦争と超大国としての地位が大きく揺らぐこととなったアメリカを描く
ケネディが大統領に就任した1960年代初めアメリカは超大国としての自信に満ち溢れていた
ケネディは平和への理想を高く掲げていた
どのような平和を我々は求めているのか?
アメリカが武力で世界に強制するアメリカの平和ではない。
私が言いたいのは真の平和。
生き甲斐のある生活を保証し、人類と国家が栄え、子孫により良い生活を約束する平和。
アメリカ人のための平和ではなく、全人類の永遠の平和である。
――ケネディ大統領演説より
理想とは裏腹に厳しい現実に直面する→ベトナム情勢の悪化
1962年10月 南ベトナム建国記念式典
社会主義化を進める北ベトナムに対抗してアメリカから援助を受けていた
南ベトナム大統領 ゴ・ディン・ジエム
南ベトナムは社会主義の拡大を防ぐ防波堤の役割
しかし政情が不安定だった
大統領の弟 ゴ・ディン・ニュー夫妻は秘密警察を使って反政府勢力を弾圧
北ベトナム大統領 ホー・チ・ミン
ベトナム労働党が南ベトナムをアメリカの帝国主義から解放するとスローガンを立てた
1960年12月 南ベトナム内に 南ベトナム民族解放戦線を結成
1963年1月 アプバックの戦い
アメリカの近代的な装備のサイゴン政府軍に始めて大打撃を与えた
南ベトナム サイゴン
独裁政治への激しい抵抗運動
仏教徒がカトリック教徒のゴ・ディン・ジエム率いるサイゴン政権に弾圧を受けていたため運動の中心に
僧侶が路上で抗議の焼身自殺
事前に予告され公開された自殺が相次いだ
治安の悪化を世界に伝え、アメリカのベトナム政策への批判が高まった
仏教徒たちが何をしました?
彼らがしたことといえば、僧侶の一人をバーベキューにしただけ。
あの僧侶はそそのかされて陶酔状態だったのよ。
あのバーベキューも矛盾してるわよ。
反米運動なのにアメリカ製ガソリンを使うなんて。
――ゴ・ディン・ニュー夫人
1963年11月1日 政府軍によるクーデター
サイゴン政権に愛想を尽かしアメリカも黙認
大統領と弟も殺され軍部の臨時政府が樹立
ケネディは2年以内にベトナムから手を引く決意だった
アメリカは国内では黒人問題を抱えていた
リンカーンの奴隷解放宣言から100年の1963年 黒人は依然として黒人専用の場所にしか入れなかった
いまだに人種隔離政策が行われていた
差別の撤廃を訴えて白人専用の席に座りこむ黒人たち
白人の暴力に耐えながら抗議運動は広まっていった
1963年4月 アラバマ州バーミンガム
黒人住民の大規模な差別撤廃構想が始まった
指揮したのはバプテスト教会の牧師 マーティン・ルーサー・キング2世
ガンジーの非暴力主義に則り大衆行動で差別を撤廃しようとした
6週間にわたってデモを繰り返した
デモ禁止令で逮捕されスクールバスで連行される少年の映像
最盛期に逮捕された人数はおよそ2500人 多くは10代の子供
デモ隊に犬をけしかける白人警官の映像
「なぜ、直接行動を、なぜ座り込みやデモ行進などをするのか?
交渉というもっと良い手段があるのではないか」
と、貴方方が問われるのはもっともです。
実に、話し合いこそが直接行動の目的なのです。
非暴力直接行動の狙いは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、
争点と対決せざるをえないような危機感と緊張を作りだそうとするものです。
苦しい体験を通して我々は、自由は決して迫害者の側から自発的に与えられることはなく、
迫害に虐げられている側が、自ら要求しなければならない、と悟ったのです。
――キング獄中からの手紙より
ケネディは人種差別の撤廃を目指す公民権法の立法化を約束
我々は世界で自由の価値を説き、国内でも自由を尊重している。
にもかかわらず――
「わが国は自由の地だが、黒人は例外」
「差別はないが、黒人は例外」
「階級制度やスラムはないが、黒人は例外」などと言えるだろうか。
今こそ真の自由をもたらすべき時だ。
――ケネディ大統領公民権法演説より
ケネディが議案を議会に提出したことで黒人たちの運動は頂点に達した
1963年8月28日 ワシントン大行進
流れている曲は公民権運動の象徴の歌 we shall over come
黒人を中心とする20万人の人々が公民権法の早期成立を求めて行進した
キング牧師の有名な演説
この日ケネディを訪問したキングたち黒人指導者
ケネディは3か月後公民権運動に批判的な南部へ遊説へ
1963年11月22日 テキサス州ダラス
ケネディが暗殺された
事件直後に状況証拠からリー・ハーベイ・オズワルドが逮捕された
事件の二日後オズワルドもケネディの信奉者を名乗る男によって射殺
ケネディ暗殺は謎に包まれた
ケネディの跡をついで第36代大統領に副大統領だったリンドン・ジョンソンが就任
1964年1月 年頭教書を発表するジョンソン
貧困の根絶を宣言
公民権法もジョンソン政権のもとで成立
1964年8月2日 トンキン湾事件
北ベトナム沖合トンキン湾でアメリカの駆逐艦が北側に攻撃されたというニュース
トンキン湾の公海上で――
アメリカの駆逐艦が通常のパトロール任務に就いていた。
北ベトナムの魚雷艇3隻が、いわれのない攻撃を仕掛けてきた。
ただちに我が駆逐艦は反撃した。
8月4日夜、北ベトナムの魚雷艇は2度目の攻撃を仕掛けてきた。
――再現映画「NAVY SCREEN HIGHLIGHT トンキン湾事件」より
アメリカ側は本当は通常のパトロールではなかった
アメリカ上院委員会の後の調査によれば駆逐艦は南ベトナム海軍とともに北側の基地を攻撃する秘密作戦に従事し北ベトナムの領海を侵犯していた
二度目の攻撃に関しては本当にあったのかさえも怪しい
ジョンソンは二度目の攻撃に対する報復としてアメリカ軍機が初めて北ベトナムを爆撃
1964年8月7日 トンキン湾決議可決
大統領があらゆる手段をとることを認める法案が可決
南ベトナムでは解放戦線がサイゴン周辺で構成を強めた
サイゴン アメリカ大使館を解放戦線のゲリラが爆破
1965年2月7日 プレイク米軍基地攻撃
アメリカ兵9人が死亡 多数が負傷
ジョンソンは報復措置として北ベトナムの軍事目標の爆撃を指令
1965年2月7日 北爆開始
1965年3月8日 アメリカ海兵隊ダナン上陸
全権を握っていたジョンソンはアメリカ軍の大量介入に踏み切った
その数9か月で19万人
アジアの非共産国家の多くは、共産主義勢力の拡大を自分達の力で阻止できません。
アメリカの力こそが頼りなのです。
もし我々がベトナムから退くならば、アメリカの約束や反故を信用する国はなくなるでしょう。
親愛なるアメリカ国民の皆さん、だから我々はベトナムに介入するのです。
――ジョンソン大統領声明より
戦略爆撃機B52も初めてベトナム戦線に投入
1機で30tの爆弾を搭載 南ベトナムの解放戦線の支配地域を爆撃
北ベトナムへの北爆は3月から恒常的に行われるように
ベトナム戦争はアメリカの戦争へと拡大
1964年7月 公民権法成立2週間後ニューヨークで黒人暴動
公民権法ができても差別構造が自立を阻んでいた
大都市では夏になると黒人の怒りが爆発するように
ハーレムの住宅環境が悪いのは、政府の責任だ。
子供をかじるネズミ、人間の食料を横取りするゴキブリ、みんな政府の責任だ。
まずい食料がものすごく高いのは、政府の責任だ。
すべてはアメリカ政府が悪いのだ。
わが教祖は黒人至上主義者と呼ばれている。
我々が白人と同等どころか白人より優れていると説くからだ。
そう、白人より優れているのだ。
言うまでもないことだが、我々は白人より優れているのだ。
肌の色を比較してみよ。
あなたたちの肌は黄金のように輝いて見える。
――マルコムXの演説より
1960年代前半 マルコムXはスラム街に住む黒人たちの怒りの代弁者として注目された
彼は黒人だけのイスラム教壇に所属
キング牧師と違い黒人の白人社会からの分離独立を主張した
1966年7月 シカゴ
黒人の住宅環境の改善を求めて行われたデモ行進
キングはこの年南部から北部のシカゴへ移住し大都市での活動を始めた
しかし南部以上に激しい白人側の抵抗にあう
白人の一般市民がデモ隊に石を投げつけ襲いかかった
警察が出動し白人を逮捕
平和的なキングのやり方に黒人側から批判が出始めた
ブラック・パワーを叫ぶ公民権運動の若い主導者 ストークリー・カーマイケル
マルコムXの影響を受けた彼は白人との協力を拒絶し黒人が主導権を握ることを主張した
スラム街の黒人の中からは自衛のために武装したブラックパンサー党
カリフォルニア大学バークレイ校
黒人だけでなく白人の中にもアメリカ社会への疑問を持つものが現れた
1964年秋 学生運動活動家 マリオ・サヴィオ
大学での政治活動を禁止したことで言論の自由を求める運動が起きた
大学をほぼ占拠
警察によって強制的に排除 しかし学生運動が世界の大学に広がった
ベトナムではアメリカ軍は密林に潜む敵を撃滅しようとしていたが苦戦していた
ジャングルに入っていくのは冷たい海に飛び込んでいくみたいでなんだか怖かった。
ドアが開いて叫びながら走って振り返ると、小さな宇宙船みたいな弾がひゅうひゅう飛んでいる。
腕を伸ばせば取れるんじゃないかという気がする。
自分がどこにいてこれからどこにいくのかという現実が初めて見えてきた。
これは戦争なんだ。
僕は本当にこんなとこで死んじまうかもしれない。
悪夢のようだった。
とにかくショックだった。
――アメリカ軍兵士の回想より
確かに、俺たちは攻撃されている。
不注意に頭を上げれば弾がひゅっと耳を掠める。
だけど、敵が見えない。
奴らはどこかにいて俺たちを見ている。
奴らは俺たちがどこに行くのかさえもちゃんとわかっている。
俺たちは常に敵の仕掛けた罠で犠牲を払っていたんだ。
作戦に出るときは長い列になって歩いていくんだ。
自分の足が踏もうとする地面を見つめながら、今日は誰が罠にかかるだろうか、やられるのは誰だろう、と思っている。
精神がほんと、くたくたになる。
――アメリカ軍兵士の回想より
解放戦線はアメリカ軍から鹵獲した物資を使って手作業で独自の武器を作っていた
我々は敵ほど武器を持っていなかったから、頭を使う必要があった。
罠をしかけ、待ち伏せし、単純だが必殺の武器を使った。
アメリカ兵はのろまで不器用だった。
ジャングルを通り抜ける時は特に、象のように動きが鈍かった。
我々は3人1組で行動したから、武器も簡単で、物音を立てずに素早く動けた。
アメリカ兵を1人でも負傷させるか殺すかして、また1日戦えるなら、それが勝利だった。
水滴が石に穴をうがつように、アメリカの軍隊を磨耗させるつもりだった。
――解放戦線兵士の回想より
地雷を探すアメリカ側の映像
誰が敵で、誰が味方なのか、見分けられない。
みんな同じように見えた。
着る物も同じだった。
みんなベトナム人だ。
その中にベトコンがいた。
村人は地雷が埋めてあることを知っていても、注意もしてくれない。
地雷を埋めたのは彼ら自身だったかもしれない。
フットボールの試合と違って、敵と味方が区別出来ないのだ。
周囲は敵だらけだった。
――アメリカ軍兵士の回想より
1965年8月 アメリカ海兵隊が南ベトナムの村で行われた作戦
解放戦線の本拠地とみられていた 敵の兵士らしい映像はない
貯蔵していた食糧を捨て尋問する様子 村を焼き払った
このような戦場の様子はアメリカにテレビで伝えられた
戦時下の北ベトナムを描いた映画 アメリカのテレビ局がイギリス国籍の監督に政策を依頼 1967年に撮影が実現
北爆の様子が登場する
北爆は軍事目標のみとされていたが民間人も犠牲になる様子が映されていた
アメリカ国民は北爆の実態を初めて知った
この戦争の意味を問い直す運動が起こり始めた
学生を中心に徴兵を拒否する運動が展開
私は、この無意味な人殺しを終わらせるために、可能なあらゆる手を尽くし、この戦争に荷担すまいと決心した。
もはや、徴兵カードを携帯せず、平和運動に挺身するつもりである。
私は、私の国を心から愛している。
この愛故に、人々が自由の名において殺されるのを、黙って見てはいられないのだ。
――徴兵拒否者から政府への手紙より
1967年4月 ニューヨーク
キング牧師も参加し反戦活動に黒人勢力が加わった
1967年10月21日 ワシントン
7万人以上が集まった
ピーター、ポール&マリー
アメリカ国防総省 ペンタゴンに侵入を試み軍隊と32時間にわたり衝突
10月21日は国際反戦デーに
大成への反逆は既成の価値観をも否定
黒人運動は一層過激化 武装した黒人と警官が銃撃戦を展開
自衛のため白人女性の射撃訓練が流行
ベトナム戦争下 アメリカ社会にひずみが生じた
1967年12月22日 南ベトナムをジョンソン大統領が訪問
1968年1月31日 テト攻勢 旧正月二日
解放戦線20名が6時間にわたりアメリカ大使館を占拠
2日間で米兵232人が死亡 900名負傷
サイゴンでは大統領官邸や軍の中枢も同時に襲撃されたがその日のうちに鎮圧
同じ日 捕虜となった解放戦線の兵士が路上で射殺
世界に計り知れない衝撃を与えた
ベトナムのかつての都 フエ攻防戦
25日間にわたって続いた
ケサン攻防戦
解放勢力の戦力が侮れないことを印象づけた
ジョンソンの信頼が揺らいだ
ベトナム問題がこの年の選挙の最大争点
ジョンソンと同じ民主党のロバート・ケネディがベトナム反戦をスローガンに
民主党の分裂
1968年3月31日 ジョンソンは北爆の部分的停止を発表
次の大統領選挙には出ないことを宣言
4日後 キング牧師が狙撃され暗殺
非暴力運動が勢いを失っており一つの時代の終わりを感じさせた
前途に困難な日々が待ってます。
でも、もうどうでもよいのです。
私は山の頂上に登ってきたのだから。
私も長生きがしたい。
長生きするのも悪くないが、今の私にはどうでもいい。
神の意志を実現したいだけです。
神は私が山に登るのを許され、
私は頂上から約束の地を見たのです。
私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、
ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。
今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。
神の再臨の栄光をこの目でみたのですから
――マーチン・ルーサー・キング2世 最後の演説より
1968年6月 カリフォルニア州 ロバート・ケネディ暗殺
1968年8月 シカゴ 民主党の大統領候補を決める大会
会場の外で反戦デモ隊を取り締まる警官隊
1万人の若者が集結 シカゴ警察は弾圧
警察に捕まった老婆 we shall overcome
共和党大統領候補 リチャード・ニクソン
ニクソンは法と秩序の回復 ベトナムからの名誉ある撤退を公約
1968年11月 第37代大統領に
1968年末アメリカ側死者はすでに3万人以上 駐留は54万人に
1968年12月 ボブ・ホープ慰問公演
大統領就任半年後 ベトナムのアメリカ軍基地を訪問するニクソン
ニクソンは南ベトナムの軍隊にその負担を肩代わりさせる政策を展開
1969年8月まで2万5000人が撤退 この後も段階的に減らされた
1969年8月 ウッドストック音楽祭 ニューヨークの酪農場
全米から30万人以上が来た
ヒッピー 何にも縛られない自由 若者の新しい価値観
1969年7月16日 アポロ11号打ち上げ
月面着陸成功 月着陸船イーグル アームストロング船長
ほんとに素晴らしい。
信じられないこと、まったく不可能だったことが可能になったのです。
アメリカはやはり偉大な国、世界一の国です。
――アメリカ人主婦の感想
宇宙を支配するために人類が作った手段が大成功を収めた。
この啓示的な日に我々が忘れてならないのは、人類が必要とするものをよく認識し、人類自らを支配し律していくことである。
――ローマ法王パウロ6世のメッセージ
それは、ひどく不気味な光景だった。
アメリカという国は、ベトナムの泥沼を這いずり回って暮らす数十万の我々全員よりも、月面にいるたった二人の男のことのほうをずっと心配していたのだ。
得体の知れない感情がこみ上げてきた。
――ベトナム前線の米兵の手記
1969年10月15日 ワシントンなど各地
戦死者を弔う反戦デモ 100万人規模のデモ
ニクソンは和平提案に対する北ベトナムの回答を待っていた
いい回答を引き出すため11月1日の期限を過ぎれば徹底的な武力行使に出ると通告
10月15日の夜、私はこの平和を求める抗議行動がもたらした
皮肉な状況について考えた。
今年中にベトナム戦争を終結させる可能性が少しはあったとしても、
この集会の結果、その可能性は完全に無くなってしまった。
北ベトナムがアメリカ国内の反戦運動の盛り上がりを見て
私の最後通告を信じなくなったことが私には分かっていた。
私が劇的な措置を取らないという状況が、私の弱さの現れであると
共産側に誤解されないようにしなければならなかった。
――ニクソン大統領の回想より
ニクソンは反戦運動に批判的であるが声に出さない市民 サイレントマジョリティに支持を求めた
NOV.3,1969
沈黙を守っている大多数のアメリカ国民の皆さん
あなた方の支持を求めたい
名誉ある平和を勝ち取る方法で
戦争を終結すると私は公約した
国民の支持が得られれば
早く公約を履行できる
国内が分裂していれば
敵は交渉に応じようとしない
――ニクソン大統領の演説より
名誉ある平和を勝ち取るまで戦争を続けることが保守派層の支持を集めた
ブルーカラーの人々が多く ヘルメットがシンボル
俺達は自分達がどう感じてるのか、示したかっただけさ。
つまり、俺達がニクソンを支持してるってことをさ。
あの金持ち連中の息子達は、うまいことやって徴兵を逃れて
反戦だなんてやりたい放題だ。
まるで自分達が国を動かしているかのようだ。
奴等が抗議する権利のあることは認める。
しかし、星条旗を汚すような行為は絶対に許すことは出来ない。
――ニクソン支持派労働者の証言より
1970年5月 カンボジア侵攻
カンボジアの北ベトナム補給基地を攻撃
インドシナ半島全域へと戦争は拡大 3年近く続いた
ベトナム報道でピューリッツァー賞を受賞したハルバースタム
あの頃アメリカ人は何のためにベトナムにいるのか、
ということが話題になると、
我々は内部からの侵略と戦っているこの国を助けるために来ている、
というのが決まり文句だった。
だがベトナムを助けるという夢は時として神話となり、
自分についての幻想を生み出す。
私は我々の側が勝利することを願っていたし、アメリカ的価値も信じていた。
だがアメリカは勝ってはいなかった。
アメリカ人は平等を謳い、民主主義を信奉し、共産勢力と戦うベトナム人を助けようと躍起になっていた。
がベトナムの農民の目にはアメリカ人金持ちの白人であり、
かつて植民地支配にしがみついたフランス人の友人なのだ。
我々が思い描くアメリカの姿は彼らの目にはまったく逆のものに映っていたのだ。
――ハルバースタム 娘への手紙より
今世紀二つの大戦を経て超大国となったアメリカ
正義なき戦いといわれるようになったベトナム戦争での敗退はアメリカの初めての挫折となった
超大国アメリカは大きく揺らぎ始めた
1974年8月9日 ニクソン大統領辞任
ベトナム撤退が完了した翌年 民主党本部の盗聴に端を発したウォーターデート事件の責任をとった
アメリカの威信をかけて守ろうとした南ベトナムも崩壊への道をたどる
1975年4月26日 解放勢力はサイゴン総攻撃を開始
アメリカ大使館に助ける人が殺到
ヘリコプターで海上の船へ脱出
アメリカのベトナム解放の象徴であった軍用ヘリは留め置く場所がなくなったので海上に投棄
1975年4月30日 南ベトナム崩壊
アメリカのベトナム政策は失敗に終わった
国交回復まで20年の歳月を要した
1974年4月30日 北ベトナムの戦車部隊がサイゴンの大統領官邸に突入
ベトナム戦争はテレビで映像が伝えられた初めての戦争
ベトナムの現実はアメリカ社会を揺さぶった
戦争の是非をめぐって意見が対立 様々な価値観が崩壊した
ベトナム戦争と超大国としての地位が大きく揺らぐこととなったアメリカを描く
ケネディが大統領に就任した1960年代初めアメリカは超大国としての自信に満ち溢れていた
ケネディは平和への理想を高く掲げていた
どのような平和を我々は求めているのか?
アメリカが武力で世界に強制するアメリカの平和ではない。
私が言いたいのは真の平和。
生き甲斐のある生活を保証し、人類と国家が栄え、子孫により良い生活を約束する平和。
アメリカ人のための平和ではなく、全人類の永遠の平和である。
――ケネディ大統領演説より
理想とは裏腹に厳しい現実に直面する→ベトナム情勢の悪化
1962年10月 南ベトナム建国記念式典
社会主義化を進める北ベトナムに対抗してアメリカから援助を受けていた
南ベトナム大統領 ゴ・ディン・ジエム
南ベトナムは社会主義の拡大を防ぐ防波堤の役割
しかし政情が不安定だった
大統領の弟 ゴ・ディン・ニュー夫妻は秘密警察を使って反政府勢力を弾圧
北ベトナム大統領 ホー・チ・ミン
ベトナム労働党が南ベトナムをアメリカの帝国主義から解放するとスローガンを立てた
1960年12月 南ベトナム内に 南ベトナム民族解放戦線を結成
1963年1月 アプバックの戦い
アメリカの近代的な装備のサイゴン政府軍に始めて大打撃を与えた
南ベトナム サイゴン
独裁政治への激しい抵抗運動
仏教徒がカトリック教徒のゴ・ディン・ジエム率いるサイゴン政権に弾圧を受けていたため運動の中心に
僧侶が路上で抗議の焼身自殺
事前に予告され公開された自殺が相次いだ
治安の悪化を世界に伝え、アメリカのベトナム政策への批判が高まった
仏教徒たちが何をしました?
彼らがしたことといえば、僧侶の一人をバーベキューにしただけ。
あの僧侶はそそのかされて陶酔状態だったのよ。
あのバーベキューも矛盾してるわよ。
反米運動なのにアメリカ製ガソリンを使うなんて。
――ゴ・ディン・ニュー夫人
1963年11月1日 政府軍によるクーデター
サイゴン政権に愛想を尽かしアメリカも黙認
大統領と弟も殺され軍部の臨時政府が樹立
ケネディは2年以内にベトナムから手を引く決意だった
アメリカは国内では黒人問題を抱えていた
リンカーンの奴隷解放宣言から100年の1963年 黒人は依然として黒人専用の場所にしか入れなかった
いまだに人種隔離政策が行われていた
差別の撤廃を訴えて白人専用の席に座りこむ黒人たち
白人の暴力に耐えながら抗議運動は広まっていった
1963年4月 アラバマ州バーミンガム
黒人住民の大規模な差別撤廃構想が始まった
指揮したのはバプテスト教会の牧師 マーティン・ルーサー・キング2世
ガンジーの非暴力主義に則り大衆行動で差別を撤廃しようとした
6週間にわたってデモを繰り返した
デモ禁止令で逮捕されスクールバスで連行される少年の映像
最盛期に逮捕された人数はおよそ2500人 多くは10代の子供
デモ隊に犬をけしかける白人警官の映像
「なぜ、直接行動を、なぜ座り込みやデモ行進などをするのか?
交渉というもっと良い手段があるのではないか」
と、貴方方が問われるのはもっともです。
実に、話し合いこそが直接行動の目的なのです。
非暴力直接行動の狙いは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、
争点と対決せざるをえないような危機感と緊張を作りだそうとするものです。
苦しい体験を通して我々は、自由は決して迫害者の側から自発的に与えられることはなく、
迫害に虐げられている側が、自ら要求しなければならない、と悟ったのです。
――キング獄中からの手紙より
ケネディは人種差別の撤廃を目指す公民権法の立法化を約束
我々は世界で自由の価値を説き、国内でも自由を尊重している。
にもかかわらず――
「わが国は自由の地だが、黒人は例外」
「差別はないが、黒人は例外」
「階級制度やスラムはないが、黒人は例外」などと言えるだろうか。
今こそ真の自由をもたらすべき時だ。
――ケネディ大統領公民権法演説より
ケネディが議案を議会に提出したことで黒人たちの運動は頂点に達した
1963年8月28日 ワシントン大行進
流れている曲は公民権運動の象徴の歌 we shall over come
黒人を中心とする20万人の人々が公民権法の早期成立を求めて行進した
キング牧師の有名な演説
この日ケネディを訪問したキングたち黒人指導者
ケネディは3か月後公民権運動に批判的な南部へ遊説へ
1963年11月22日 テキサス州ダラス
ケネディが暗殺された
事件直後に状況証拠からリー・ハーベイ・オズワルドが逮捕された
事件の二日後オズワルドもケネディの信奉者を名乗る男によって射殺
ケネディ暗殺は謎に包まれた
ケネディの跡をついで第36代大統領に副大統領だったリンドン・ジョンソンが就任
1964年1月 年頭教書を発表するジョンソン
貧困の根絶を宣言
公民権法もジョンソン政権のもとで成立
1964年8月2日 トンキン湾事件
北ベトナム沖合トンキン湾でアメリカの駆逐艦が北側に攻撃されたというニュース
トンキン湾の公海上で――
アメリカの駆逐艦が通常のパトロール任務に就いていた。
北ベトナムの魚雷艇3隻が、いわれのない攻撃を仕掛けてきた。
ただちに我が駆逐艦は反撃した。
8月4日夜、北ベトナムの魚雷艇は2度目の攻撃を仕掛けてきた。
――再現映画「NAVY SCREEN HIGHLIGHT トンキン湾事件」より
アメリカ側は本当は通常のパトロールではなかった
アメリカ上院委員会の後の調査によれば駆逐艦は南ベトナム海軍とともに北側の基地を攻撃する秘密作戦に従事し北ベトナムの領海を侵犯していた
二度目の攻撃に関しては本当にあったのかさえも怪しい
ジョンソンは二度目の攻撃に対する報復としてアメリカ軍機が初めて北ベトナムを爆撃
1964年8月7日 トンキン湾決議可決
大統領があらゆる手段をとることを認める法案が可決
南ベトナムでは解放戦線がサイゴン周辺で構成を強めた
サイゴン アメリカ大使館を解放戦線のゲリラが爆破
1965年2月7日 プレイク米軍基地攻撃
アメリカ兵9人が死亡 多数が負傷
ジョンソンは報復措置として北ベトナムの軍事目標の爆撃を指令
1965年2月7日 北爆開始
1965年3月8日 アメリカ海兵隊ダナン上陸
全権を握っていたジョンソンはアメリカ軍の大量介入に踏み切った
その数9か月で19万人
アジアの非共産国家の多くは、共産主義勢力の拡大を自分達の力で阻止できません。
アメリカの力こそが頼りなのです。
もし我々がベトナムから退くならば、アメリカの約束や反故を信用する国はなくなるでしょう。
親愛なるアメリカ国民の皆さん、だから我々はベトナムに介入するのです。
――ジョンソン大統領声明より
戦略爆撃機B52も初めてベトナム戦線に投入
1機で30tの爆弾を搭載 南ベトナムの解放戦線の支配地域を爆撃
北ベトナムへの北爆は3月から恒常的に行われるように
ベトナム戦争はアメリカの戦争へと拡大
1964年7月 公民権法成立2週間後ニューヨークで黒人暴動
公民権法ができても差別構造が自立を阻んでいた
大都市では夏になると黒人の怒りが爆発するように
ハーレムの住宅環境が悪いのは、政府の責任だ。
子供をかじるネズミ、人間の食料を横取りするゴキブリ、みんな政府の責任だ。
まずい食料がものすごく高いのは、政府の責任だ。
すべてはアメリカ政府が悪いのだ。
わが教祖は黒人至上主義者と呼ばれている。
我々が白人と同等どころか白人より優れていると説くからだ。
そう、白人より優れているのだ。
言うまでもないことだが、我々は白人より優れているのだ。
肌の色を比較してみよ。
あなたたちの肌は黄金のように輝いて見える。
――マルコムXの演説より
1960年代前半 マルコムXはスラム街に住む黒人たちの怒りの代弁者として注目された
彼は黒人だけのイスラム教壇に所属
キング牧師と違い黒人の白人社会からの分離独立を主張した
1966年7月 シカゴ
黒人の住宅環境の改善を求めて行われたデモ行進
キングはこの年南部から北部のシカゴへ移住し大都市での活動を始めた
しかし南部以上に激しい白人側の抵抗にあう
白人の一般市民がデモ隊に石を投げつけ襲いかかった
警察が出動し白人を逮捕
平和的なキングのやり方に黒人側から批判が出始めた
ブラック・パワーを叫ぶ公民権運動の若い主導者 ストークリー・カーマイケル
マルコムXの影響を受けた彼は白人との協力を拒絶し黒人が主導権を握ることを主張した
スラム街の黒人の中からは自衛のために武装したブラックパンサー党
カリフォルニア大学バークレイ校
黒人だけでなく白人の中にもアメリカ社会への疑問を持つものが現れた
1964年秋 学生運動活動家 マリオ・サヴィオ
大学での政治活動を禁止したことで言論の自由を求める運動が起きた
大学をほぼ占拠
警察によって強制的に排除 しかし学生運動が世界の大学に広がった
ベトナムではアメリカ軍は密林に潜む敵を撃滅しようとしていたが苦戦していた
ジャングルに入っていくのは冷たい海に飛び込んでいくみたいでなんだか怖かった。
ドアが開いて叫びながら走って振り返ると、小さな宇宙船みたいな弾がひゅうひゅう飛んでいる。
腕を伸ばせば取れるんじゃないかという気がする。
自分がどこにいてこれからどこにいくのかという現実が初めて見えてきた。
これは戦争なんだ。
僕は本当にこんなとこで死んじまうかもしれない。
悪夢のようだった。
とにかくショックだった。
――アメリカ軍兵士の回想より
確かに、俺たちは攻撃されている。
不注意に頭を上げれば弾がひゅっと耳を掠める。
だけど、敵が見えない。
奴らはどこかにいて俺たちを見ている。
奴らは俺たちがどこに行くのかさえもちゃんとわかっている。
俺たちは常に敵の仕掛けた罠で犠牲を払っていたんだ。
作戦に出るときは長い列になって歩いていくんだ。
自分の足が踏もうとする地面を見つめながら、今日は誰が罠にかかるだろうか、やられるのは誰だろう、と思っている。
精神がほんと、くたくたになる。
――アメリカ軍兵士の回想より
解放戦線はアメリカ軍から鹵獲した物資を使って手作業で独自の武器を作っていた
我々は敵ほど武器を持っていなかったから、頭を使う必要があった。
罠をしかけ、待ち伏せし、単純だが必殺の武器を使った。
アメリカ兵はのろまで不器用だった。
ジャングルを通り抜ける時は特に、象のように動きが鈍かった。
我々は3人1組で行動したから、武器も簡単で、物音を立てずに素早く動けた。
アメリカ兵を1人でも負傷させるか殺すかして、また1日戦えるなら、それが勝利だった。
水滴が石に穴をうがつように、アメリカの軍隊を磨耗させるつもりだった。
――解放戦線兵士の回想より
地雷を探すアメリカ側の映像
誰が敵で、誰が味方なのか、見分けられない。
みんな同じように見えた。
着る物も同じだった。
みんなベトナム人だ。
その中にベトコンがいた。
村人は地雷が埋めてあることを知っていても、注意もしてくれない。
地雷を埋めたのは彼ら自身だったかもしれない。
フットボールの試合と違って、敵と味方が区別出来ないのだ。
周囲は敵だらけだった。
――アメリカ軍兵士の回想より
1965年8月 アメリカ海兵隊が南ベトナムの村で行われた作戦
解放戦線の本拠地とみられていた 敵の兵士らしい映像はない
貯蔵していた食糧を捨て尋問する様子 村を焼き払った
このような戦場の様子はアメリカにテレビで伝えられた
戦時下の北ベトナムを描いた映画 アメリカのテレビ局がイギリス国籍の監督に政策を依頼 1967年に撮影が実現
北爆の様子が登場する
北爆は軍事目標のみとされていたが民間人も犠牲になる様子が映されていた
アメリカ国民は北爆の実態を初めて知った
この戦争の意味を問い直す運動が起こり始めた
学生を中心に徴兵を拒否する運動が展開
私は、この無意味な人殺しを終わらせるために、可能なあらゆる手を尽くし、この戦争に荷担すまいと決心した。
もはや、徴兵カードを携帯せず、平和運動に挺身するつもりである。
私は、私の国を心から愛している。
この愛故に、人々が自由の名において殺されるのを、黙って見てはいられないのだ。
――徴兵拒否者から政府への手紙より
1967年4月 ニューヨーク
キング牧師も参加し反戦活動に黒人勢力が加わった
1967年10月21日 ワシントン
7万人以上が集まった
ピーター、ポール&マリー
アメリカ国防総省 ペンタゴンに侵入を試み軍隊と32時間にわたり衝突
10月21日は国際反戦デーに
大成への反逆は既成の価値観をも否定
黒人運動は一層過激化 武装した黒人と警官が銃撃戦を展開
自衛のため白人女性の射撃訓練が流行
ベトナム戦争下 アメリカ社会にひずみが生じた
1967年12月22日 南ベトナムをジョンソン大統領が訪問
1968年1月31日 テト攻勢 旧正月二日
解放戦線20名が6時間にわたりアメリカ大使館を占拠
2日間で米兵232人が死亡 900名負傷
サイゴンでは大統領官邸や軍の中枢も同時に襲撃されたがその日のうちに鎮圧
同じ日 捕虜となった解放戦線の兵士が路上で射殺
世界に計り知れない衝撃を与えた
ベトナムのかつての都 フエ攻防戦
25日間にわたって続いた
ケサン攻防戦
解放勢力の戦力が侮れないことを印象づけた
ジョンソンの信頼が揺らいだ
ベトナム問題がこの年の選挙の最大争点
ジョンソンと同じ民主党のロバート・ケネディがベトナム反戦をスローガンに
民主党の分裂
1968年3月31日 ジョンソンは北爆の部分的停止を発表
次の大統領選挙には出ないことを宣言
4日後 キング牧師が狙撃され暗殺
非暴力運動が勢いを失っており一つの時代の終わりを感じさせた
前途に困難な日々が待ってます。
でも、もうどうでもよいのです。
私は山の頂上に登ってきたのだから。
私も長生きがしたい。
長生きするのも悪くないが、今の私にはどうでもいい。
神の意志を実現したいだけです。
神は私が山に登るのを許され、
私は頂上から約束の地を見たのです。
私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、
ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。
今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。
神の再臨の栄光をこの目でみたのですから
――マーチン・ルーサー・キング2世 最後の演説より
1968年6月 カリフォルニア州 ロバート・ケネディ暗殺
1968年8月 シカゴ 民主党の大統領候補を決める大会
会場の外で反戦デモ隊を取り締まる警官隊
1万人の若者が集結 シカゴ警察は弾圧
警察に捕まった老婆 we shall overcome
共和党大統領候補 リチャード・ニクソン
ニクソンは法と秩序の回復 ベトナムからの名誉ある撤退を公約
1968年11月 第37代大統領に
1968年末アメリカ側死者はすでに3万人以上 駐留は54万人に
1968年12月 ボブ・ホープ慰問公演
大統領就任半年後 ベトナムのアメリカ軍基地を訪問するニクソン
ニクソンは南ベトナムの軍隊にその負担を肩代わりさせる政策を展開
1969年8月まで2万5000人が撤退 この後も段階的に減らされた
1969年8月 ウッドストック音楽祭 ニューヨークの酪農場
全米から30万人以上が来た
ヒッピー 何にも縛られない自由 若者の新しい価値観
1969年7月16日 アポロ11号打ち上げ
月面着陸成功 月着陸船イーグル アームストロング船長
ほんとに素晴らしい。
信じられないこと、まったく不可能だったことが可能になったのです。
アメリカはやはり偉大な国、世界一の国です。
――アメリカ人主婦の感想
宇宙を支配するために人類が作った手段が大成功を収めた。
この啓示的な日に我々が忘れてならないのは、人類が必要とするものをよく認識し、人類自らを支配し律していくことである。
――ローマ法王パウロ6世のメッセージ
それは、ひどく不気味な光景だった。
アメリカという国は、ベトナムの泥沼を這いずり回って暮らす数十万の我々全員よりも、月面にいるたった二人の男のことのほうをずっと心配していたのだ。
得体の知れない感情がこみ上げてきた。
――ベトナム前線の米兵の手記
1969年10月15日 ワシントンなど各地
戦死者を弔う反戦デモ 100万人規模のデモ
ニクソンは和平提案に対する北ベトナムの回答を待っていた
いい回答を引き出すため11月1日の期限を過ぎれば徹底的な武力行使に出ると通告
10月15日の夜、私はこの平和を求める抗議行動がもたらした
皮肉な状況について考えた。
今年中にベトナム戦争を終結させる可能性が少しはあったとしても、
この集会の結果、その可能性は完全に無くなってしまった。
北ベトナムがアメリカ国内の反戦運動の盛り上がりを見て
私の最後通告を信じなくなったことが私には分かっていた。
私が劇的な措置を取らないという状況が、私の弱さの現れであると
共産側に誤解されないようにしなければならなかった。
――ニクソン大統領の回想より
ニクソンは反戦運動に批判的であるが声に出さない市民 サイレントマジョリティに支持を求めた
NOV.3,1969
沈黙を守っている大多数のアメリカ国民の皆さん
あなた方の支持を求めたい
名誉ある平和を勝ち取る方法で
戦争を終結すると私は公約した
国民の支持が得られれば
早く公約を履行できる
国内が分裂していれば
敵は交渉に応じようとしない
――ニクソン大統領の演説より
名誉ある平和を勝ち取るまで戦争を続けることが保守派層の支持を集めた
ブルーカラーの人々が多く ヘルメットがシンボル
俺達は自分達がどう感じてるのか、示したかっただけさ。
つまり、俺達がニクソンを支持してるってことをさ。
あの金持ち連中の息子達は、うまいことやって徴兵を逃れて
反戦だなんてやりたい放題だ。
まるで自分達が国を動かしているかのようだ。
奴等が抗議する権利のあることは認める。
しかし、星条旗を汚すような行為は絶対に許すことは出来ない。
――ニクソン支持派労働者の証言より
1970年5月 カンボジア侵攻
カンボジアの北ベトナム補給基地を攻撃
インドシナ半島全域へと戦争は拡大 3年近く続いた
ベトナム報道でピューリッツァー賞を受賞したハルバースタム
あの頃アメリカ人は何のためにベトナムにいるのか、
ということが話題になると、
我々は内部からの侵略と戦っているこの国を助けるために来ている、
というのが決まり文句だった。
だがベトナムを助けるという夢は時として神話となり、
自分についての幻想を生み出す。
私は我々の側が勝利することを願っていたし、アメリカ的価値も信じていた。
だがアメリカは勝ってはいなかった。
アメリカ人は平等を謳い、民主主義を信奉し、共産勢力と戦うベトナム人を助けようと躍起になっていた。
がベトナムの農民の目にはアメリカ人金持ちの白人であり、
かつて植民地支配にしがみついたフランス人の友人なのだ。
我々が思い描くアメリカの姿は彼らの目にはまったく逆のものに映っていたのだ。
――ハルバースタム 娘への手紙より
今世紀二つの大戦を経て超大国となったアメリカ
正義なき戦いといわれるようになったベトナム戦争での敗退はアメリカの初めての挫折となった
超大国アメリカは大きく揺らぎ始めた
1974年8月9日 ニクソン大統領辞任
ベトナム撤退が完了した翌年 民主党本部の盗聴に端を発したウォーターデート事件の責任をとった
アメリカの威信をかけて守ろうとした南ベトナムも崩壊への道をたどる
1975年4月26日 解放勢力はサイゴン総攻撃を開始
アメリカ大使館に助ける人が殺到
ヘリコプターで海上の船へ脱出
アメリカのベトナム解放の象徴であった軍用ヘリは留め置く場所がなくなったので海上に投棄
1975年4月30日 南ベトナム崩壊
アメリカのベトナム政策は失敗に終わった
国交回復まで20年の歳月を要した
中部太平洋 ビキニ環礁
水素爆弾が海底を抉った
第2次大戦後東西両陣営の対立は深まった
アメリカは核の優位を保とうと核実験を繰り返した
1946年7月 ビキニで行われた戦後初めての原爆実験
これ以後60回以上繰り返した
1949年8月 ソ連も原爆実験に成功
アメリカに要る核兵器の独占が終わった
冷戦は核戦争の危険をはらむようになった
米ソは軍拡競争を推し進める
1950年代から60年代初め 核の脅威に支配された冷戦の時代を描く
第2次大戦後 アメリカは世界の超大国に
1950年代は黄金時代の始まり
気がかりなことは共産主義の動向
東ヨーロッパに次いで中国も共産化
1950年には朝鮮戦争も
反共宣伝映画 共産主義者の征服計画
1952年 大統領選挙
ドワイト・アイゼンハワー 第2次世界大戦時の連合軍最高司令官
共産主義に対抗することを主張し第34代大統領に
我々に敗北主義の考えは無用です。
クレムリンの支配者は超人ではない。
彼らが理解できるのは力という言葉だけです。
――アイゼンハワー大統領就
任演説より
アメリカが頼りにした力 核兵器
さらに威力の大きい水爆の開発にも力を注いだ
1952年11月1日
中部太平洋 エニウェトク環礁での初めての水爆実験
65トンの水爆装置
広島に落ちた原爆の550倍 島を粉々に砕いた
水爆実験から6日後のモスクワの赤の広場
ロシア革命35周年式典
30年にわたってソ連の最高権力者だったスターリン
資本主義陣営に対抗し重工業や軍事力の増強を進めていた
レーニン廟の上に並ぶソ連の指導者達
ニキータ・フルシチョフ
スターリンの死後ソ連の首相になったフルシチョフ
6年後 突如失脚
秘密警察に監視されながらモスクワ郊外ペトロボ・ダーリネエ村で余生
を過ごした
彼の死後その別荘を取り壊し生活の痕跡を消した
(フルシチョフの娘 ラーダ・アジュベイ)
70歳ごろのフルシチョフ 家族が映像にとどめていた
晩年は自分の政治家としての功績を記録に残そうとしていた
テープレコーダーに録音していた
スターリンは、アメリカを初め、資本主義諸国がソビエトを
攻撃するだろうと恐れていた。
彼がどんなに震えおののいていたことか。
戦争となれば、我が国がアメリカより弱いと知っていたのだ。
アメリカは強力な空軍を持っていたし、何よりも重要なことに、
多数の核兵器を持っていた。
それに対して我が国は、やっと原爆を開発したばかりで、
完成した原爆はまだわずかしか無かった。
この状況はスターリンに重くのしかかっていた。
彼は臆病なほど震え上がり、我々の技術的努力の全てを
核兵器の開発に振り向けるよう命じたのである。
――フルシチ
ョフの回想より
核秘密都市 クルチャトフ
現在のカザフスタン共和国
ソ連崩壊後初めて西側に映像が公開された
1953年8月12日 セミバラチンスク核実験場
ソ連初めての水爆実験
アメリカに遅れること9か月 核開発技術で追いついた
1953年3月 モスクワ
水爆成功のニュースを聞かず73歳でスターリン死去
記録映画 偉大なる別れ
スターリンは世を去った。
彼の死は恐ろしい悲劇のように思われた。
私は何か悪いことが後に控えているのではないかと恐れていた。
我々は非常に弱い立場になった。
アメリカは当時、ソビエトに対して攻撃的な政策を取り、
優越さを示す機会を絶対に逃さなかった。
アメリカの全力を挙げての攻撃が、今にも始まりそうに思われた。
――フルシチ
ョフの回想より
ソ連は西側との関係改善を求めるようになっていく
1953年2月1日 NHK テレビ本放送開始
1953年6月2日 イギリス女王エリザベス2世戴冠式
1953年9月12日 ケネディ上院議員 結婚
1953年9月12日 フルシチョフ 共産党第1書記就任
ドイツの首都 ベルリン
冷戦時代の東西の対立の一つの舞台
戦後ドイツは東西に引き裂かれた
ベルリンは東ドイツの中でさらにイギリスフランスソ連アメリカで分割
統治
西ベルリンとソ連の東ベルリンに分かれた
西側は西ベルリンを自由の砦として重視し多大な援助
資本主義のショーウィンドウとしての役割を果たした
その豊かさは東ベルリンの人を惹きつけた
高い賃金や豊富な物資を求め東から西に多くの人が流れた
アメリカからの援助をもらいに西ベルリンの食糧配給所に集まった東側
の人々
西側の食料援助には本当に助かりました。
東ベルリンで物を買うためには、朝8時には行列に並ばなければなりま
せん。
主婦は子どもたちの牛乳を買うために並びますが、
8時15分には全て売り切れてしまうのです。
今日は私も牛乳を飲むことが出来ました。
オレンジやチェリーを見たのも随分久しぶりでした。
私が最後にヨーグルトを食べたのは、もう半年も前のことです。
レバーに至っては、戦後8年間、一度も食べてないのです。
――東ベルリ
ン主婦の証言より
1953年6月 東ベルリン暴動
ブランデンブルグ門から赤旗が引きずりおろされた
私はもう、人々の熱狂を誰も止めることは出来ないと思いました。
群集はだんだん過激になっていきました。
秘密警察や政府の役人を見つけると、人々は容赦なく殴りつけたのです
。
その時でした。ソビエトの戦車が現れたのです。
何人かが石を投げつけ、ある人はキャタピラにパイプを突き刺しました
。
突然一斉射撃の音が響きました。
叫び声が幾つも上がり、広場は騒然としました。
なぎ倒された何人かが、血だらけになって、地面を転げ回っていました
。
――東ベルリン労
働者の証言より
ソ連軍は戒厳令を敷き暴動を力で鎮圧
ソ連の強硬な姿勢を始めて見せつけた
東西の対立はアジアでも
1950年に勃発した朝鮮戦争
アメリカと中国の介入で東西両陣営の間の戦争に
中国は数百万人の人民義勇軍を
アメリカは国連軍の中核になりこれに対抗
北緯38度線を境に一進一退の攻防
勃発の3年後に休戦
1954年2月 マリリン・モンローが韓国に駐留するアメリカ兵の慰問に
訪れた映像
27歳 ハリウッドのセックスシンボル
ダイヤモンドは女の子の親友
1955年7月 ジュネーブ首脳会談
ポツダム以来10年ぶりの東西首脳会談
アメリカからはアイゼンハワー大統領と反共主義者のダレス国務長官
ソ連からはフルシチョフ第1書記とブルガーニン首相
ドイツ統一問題や軍縮が話し合われる中フルシチョフは緊張していたが
アイゼンハワーが弱気に見えた
ソ連が西側代表団をジュネーブのソ連大使館に昼食に招いた時の映像
にこやかに酒をふるまうフルシチョフ
確かに我々は具体的な成果を挙げることが出来なかった。
しかし、我々が相手を恐れるのと同じように、
敵もまた、我々を恐れていると知って勇気付けられた。
我々は自分達が国際舞台で自立しうることを、名実ともに明らかにした
のである。
――フルシチ
ョフの回想より
セミバラチンスク核実験場 ソ連
ジュネーブ会談の年のソ連の水爆実験
新型の水素爆弾が投下
ソ連では最大の2メガトンの威力を見せ付けた
戦争はもはや不可能 核兵器は戦争を抑止するための力
ネバダ核実験場 アメリカ
原爆を使った軍事演習
1951年以降何度も行われた
爆発の瞬間、辺りは真空状態の様に感じられた。
全てが死に絶えたように静まり返った。
そして猛烈に明るい光。
僕はとっさに手で目を覆った。
だがまるでX線を浴びた様に指の骨が白く透けて見えた。
その後大音響と共に地面が激しく振動した。
耳を塞いでも轟音が響き、頭が破裂しそうだった。
空を見上げると巨大な火の玉が僕達ちょうどの真上にあった。
原爆を知るまで僕は健康的で無邪気な17歳の若者だった。
しかし爆発の瞬間、僕は悪魔の存在を想い以前の自分では無くなってし
まった。
この世は死の世界と幸福の世界からできている。それらは薄い膜で隔て
られている。
僕はその膜を突き破り、死の世界を覗いてしまったのだ。
僕達は爆発の後前進し、強い放射能の中に入っていった。
この演習からまもなくして、僕の髪は抜け始めた。
――原爆演習参加
兵士の回想より
アメリカの核実験に参加した兵士は25~50万人
現在もその多くは被ばくによる健康問題を抱えている
1954年3月 ビキニ被災事件
日本のマグロ漁船 第五福龍丸が水爆実験に巻き込まれ被ばく
1人が死亡
核開発が環境を破壊することに人類はようやく気付いた
人類は自らを破滅させる手段の開発にエネルギーを浪費している。
世界は二つの陣営に分割され、互いに相手を絶滅させるための準備を進
めているのだ。
しかし、戦争は避けることが出来る。
核の時代においては、平和共存こそが唯一の合理的選択なのだ。
――フルシチ
ョフの回想より
1956年10月 ブダペスト
民主化を求める10万人のデモ行進
フルシチョフが平和共存を唱えスターリン批判をしたことが東ヨーロッ
パ諸国を揺さぶった
政治改革を求めるデモはソ連からの独立へ発展
翌日ソ連軍とハンガリー軍が衝突
狂気と混乱が僕の周りを支配し始めた。
機関銃のバチバチという音。
あちこちの爆発音。
戦う人達の叫び声。
あらゆる音が、死を予感させた。
だが僕には、僕らは自由への扉に近づいているのだと感じられた。
翼が与えられ、空をも飛べるような気がした。
僕らは再び、ハンガリーの土の上で、ハンガリー人になることが出来る
のだ。
僕らは共産主義を望んではいなかった。
完全に独立した、自由なハンガリーを望んでいたのだ。
――ブタペス
ト市民の日記より
ソ連はブダペストから一時撤退
しかし大部隊が侵入し鎮圧
死者は少なくとも3000人
亡命者は20万人に上った
ソ連の強硬な姿勢は西側に非難された
東西の緊張が高まった
エルビス・プレスリー
1956年3月 エド・サリバン・ショーに出演 視聴率82%を記録
1958年3月 徴兵により陸軍に入隊
1957年10月4日 バイコヌール宇宙基地
スプートニク1号がR-7ロケットにより打ち上げられる
人類初の人工衛星打ち上げに成功
直径58センチ重さ80㎏ 96分で地球を1周した
これが核戦略でのソ連の優位を決定づけるものになる
1か月後ライカ犬を乗せたスプートニク2号を打ち上げ
500㎏以上もある大きな衛星
有人宇宙飛行に向けて進歩していることを物語った
アメリカの人工衛星は直径16センチ 重さ1.5㎏
スプートニクに遅れること2か月
1957年12月 ヴァンガード打ち上げ
結果は爆発して失敗
ソ連がアメリカより進んでいることを証明する結果となった
ソ連 軍事ミサイル秘密工場
現在のウクライナ共和国
スプートニクと同じ年
L12という大陸間弾道ミサイル ICBMの開発に成功
人工衛星の代わりに核弾頭を積めば直接アメリカへの攻撃も可能
スプートニクの成功=ICBMの成功
ソ連はこの後戦略ミサイル軍を新設し核ミサイルを中心にした国防戦略
を推し進めていく
一方アメリカではミサイルではソ連に負けているというミサイルギャッ
プの議論が巻き起こる
アメリカ国民は核攻撃の恐怖にとらわれるようになった
赤の広場 革命40周年記念式典
スプートニク成功の年
毛沢東やホーチミン、鄧小平など世界64カ国の共産党指導者を前にフル
シチョフはソ連の軍事的勝利を宣言
スターリンが帝国主義の敵を恐れていた頃よりは、我々ははるかに進歩
した。
スターリンの恐れはもはや我々にはなかった。
今や我々の敵が恐怖に震えおののく番だった
もちろん我々は最初に人工衛星を打ち上げた事実を、
最大限政治的に利用するつもりだった。
アメリカの軍国主義者に圧力を加え、我々に対する扱いを改めさせよう
と思った。
――フルシチ
ョフの回想より
この翌年フルシチョフはソ連首相にも就任
ソ連の最高権力を掌握した
社会主義陣営最大の問題はベルリン問題
西ベルリンにあった難民登録場の映像
東と西の行き来が自由だったこのころ東ドイツの人が続々と難民登録を
して西側世界へ出て行った 170万人が脱出
東側としては大量の労働力の流出
1959年3月 フルシチョフ東独訪問
西ベルリンは東ドイツの真ん中に空いた傷口
フルシチョフはこれをふさぐと約束
ベルリンの占領状態解消を提案
アメリカは西ベルリンの共産化につながると考え拒否
モスクワ クレムリン
フルシチョフは提案を撤回
我々は原爆も水爆を持っている。
軍事ミサイルも開発した。
もし愚か者が我が国や社会主義国を攻撃すれば、
我々はその国を地上から抹殺できる。
戦争は侵略者ばかりか、資本主義を滅ぼすでしょう。
――フルシチョフ議会
演説より
ホワイトハウス 大統領記者会見
ミサイルギャップの議論で国防費を増やすという提案に対して
もう言い飽きたことだが、
国防費だからといって予算の無駄遣いは許されない。
もう1セントも増やす必要はない。
我々の防衛力は物凄いものなのだ。
――アイゼンハワー大統領
記者会見より
秘密偵察機 U2
アメリカはソ連の上空をスパイ飛行しておりミサイルの実戦配備が進ん
でいないことを知っていた
ソ連 バイコヌール宇宙基地
1960年10月 実験中のミサイルが爆発炎上
戦略ミサイル軍司令官をはじめとする91名が犠牲
国家の最高機密として最近まで隠されていた
公開の演説で、我々はどんな距離の物体にもミサイルを命中させること
が出来る、
と言うのはいつも気持ちの良いものだった。
しかし実際は、我々のミサイルはまだ性能が不完全で、数も少なかった
。
我々は宇宙開発ではアメリカより進んでいたが、
核兵器の数ではまだ立ち遅れていた。
実験中のミサイルだけでは、アメリカにとって大した脅威にはならなか
ったのだ。
――フルシチ
ョフの回想より
ワシントン郊外 アンドリューズ空軍基地
アイゼンハワーは関係改善のために非公式にフルシチョフを招待
ソ連の首相がアメリカを訪問したのは初めて
両国の国家が吹奏され、21発の礼砲が鳴った。
私は体が震えた。
今や世界最大の資本主義国であるアメリカが、彼らの目から見るならば
、
疫病か何かのように忌まわしいものと思ってきた社会主義の本家本元の
ような
我が国の代表に対して、こうして敬意を表しているのだ。
――フルシチ
ョフの回想より
訪米の前日 ソ連のロケットは月面に到達していた
月に送ったのと同じ金属の記念品をアイゼンハワーに贈った
フルシチョフは2週間にわたってアメリカを回った
ニューヨークはバカでかくて、やかましくて、ネオンサインや自動車が
やたら多くて、
熱気がムンムンしていて息がつまりそうな街だった。
巨大な富と贅沢。その一方に恐るべき貧困が同居していた。
観光客が必ず見物するという世界一高いビルにも行ったが、
摩天楼などというものはどれも同じようなものだった。
ハリウッド 20世紀FOXスタジオで映画 カンカン の撮影を見学
カンカンという、この特殊な踊りについては何と言ったらよいだろう。
はっきり言ってしまえば、まったく淫らなものだ。
言い換えれば、
成人向け映画のようなものだった。
――フ
ルシチョフの回想より
ソーセージ工場や大農場なども視察し気さくにアメリカ人と接した
冷戦という氷は解け始めているという楽観的な見方
しかし 1959年7月モスクワ アメリカ博覧会での映像
当時アメリカ副大統領 リチャード・ニクソン
ニクソン「あなた達の方が優れているものも確かにある。
例えばロケット開発がそうです。宇宙探査のね。
しかし、例えばこのカラーテレビ。
これは我々の勝ちです。でも、とにかく我々双方のためには…
フルシチョフ「いやいや。いずれにせよ我々はあなた達を完全に追い抜いたん
です。ロケットでね。
ロケットの開発技術でね。これは譲れません。
ニクソン「いやぁ、ちょっと待ってください。これなんですよ。私が言いた
いのは。
おわかりですか?ここで使っているビデオテープというものは、
今ここで話している会話を即座に録画し、他に伝えることができるんで
す。
つまり、コミュニケーションが増える。
コミュニケーションが増えれば我々が学ぶこともあるだろうし、あなた達が学ぶ
こともあるでしょう。
あなたは何でも知ってますか?
フルシチョフ「私に知らないことがあるとすれば、あなたはどうなんです。
共産主義について何もご存知ない。ただ恐れているだけです。
我々の国ができてまだ42年も経っていない。
しかし、あと7年もしたら我々はアメリカと肩を並べることになるでし
ょう。
そしてアメリカを追い抜いていきますからね。
追い抜く時にはこうやってね、挨拶しようではありませんか。
バイバ~イ。」
一時和らいだ米ソ関係は1960年5月 U2が撃墜され再び緊張
U2パイロット F.G.パワーズ をとらえて公開裁判にかけた
アメリカはスパイ飛行の事実を否定したが証言を受けて一転 偵察飛行
を正当化し始めた
1960年は大統領選挙の年
共和党 リチャード・ニクソン VS 民主党 ジョン・F・ケネディ
ケネディ
「様々な調査を見れば、私はこう結論づけるしかないだろうと思って
います。
アメリカが10年前20年前のような、明るい未来を持った活力に満ちた
国であると、
もはや誰も思っていません。
その理由はソビエトが宇宙開発でリードしたため、世界中の人々が科
学の分野で
アメリカがナンバーワンかどうか、疑うようになったということです
。
我々は他の分野では進んでいるかもしれません。
しかし、宇宙科学という新しい分野では負けたのです。」
ニクソン
「さて、例えばここにケネディ候補のような人物がいて、
何度も何度もアメリカが宇宙開発で遅れていると言います。
ところが現実は、アメリカが28回の打ち上げに成功しているに対し、
ソビエトは8回成功したにすぎません。
彼がこのようなことを言うとき、アメリカの威信はどうなるのでしょ
うか。
当然、地に落ちてしまうでしょう。」
ケネディ
「私はやはりソビエトが宇宙開発では一番だと思います。
あなた自身負けを認めたではありませんか。
あなたはフルシチョフとの討論で、ロケットはソビエトが上だが、
カラーテレビでは我々の勝ちだと言ったはずです。
私はロケットの方がカラーテレビなんかよりずっと重要だと思います
が。」
――テレ
ビ公開討論より
1960年11月 第35代アメリカ大統領にケネディが就任 当時43歳
ニューヨーク 国連本部
フルシチョフは国連総会に出席
一人のキューバ人と初めて対面
前年キューバ革命を成し遂げた キューバ首相 カストロ
カストロは社会主義的な政策をより一層推し進めた
キューバの社会主義化はアメリカにとって大きな脅威
ソ連は宇宙開発でも新たな衝撃を与えた
1961年4月 世界で初めて有人飛行に成功
空軍少佐 ユーリー・ガガーリン
2時間足らずで地球を一周 地球に帰還
ソ連にとってまたとない宣伝材料に
フルシチョフの政治的立場はより一層強化された
涙するフルシチョフ
1961年6月 ウィーン会談
大統領就任早々フルシチョフと会談
懸案はベルリン問題
かつて提案した占領軍の撤退をフルシチョフは迫った
最後にケネディに会った夜、彼は非常に落ち着かない様子だった。
この時の彼の表情を、私は今でもはっきりと思い出す。
私はいささか気の毒な思いを禁じえなかった。
しかし、どうすることも出来なかった。
西ベルリンの問題は、健康な肉体に出来た腫れ物のように膨れ上がって
きていた。
この腫れ物を取り除くことが、今までよりも一層重要になっていた。
――フルシチ
ョフの回想より
首脳会談2か月後の8月13日 ベルリン
東西のベルリンを結ぶ道を閉鎖 ベルリンの壁の建設
西側には予期せぬ出来事
東西ベルリン間46㎞が封鎖され本格的な壁が建設されたが西側は戦争を
恐れ黙認せざる終えなかった
東側の人々は西側へ逃げようと国境警備隊の目をかいくぐった
西ベルリンにはいろんな自由がありました。
東にはない自由です。
西では行きたいところへはどこにでも行けたし、
考えることを自由に口に出せました。
最後のチャンスでした。
今日逃げなければ、一生ダメだと思ったんです。
私は何も持たず、命の危険さえ顧みず、
自由に向かって走り出していました。
――西側への脱出
者の回想より
窓から西側の路上に飛び降り逃げ出す人も
1964年10月にはトンネルを掘った人も
10か月で全長145mのトンネルを掘った 57人が脱出
壁を越えようとして射殺された18歳の少年の映像
「西側の軍隊がいつ攻撃してくるのか、とても心配でした。
だから、自分たちの役割は平和のための救済者だと確信していました
。
壁の向うから酷い言葉で罵る西側のデモ隊を見ると、それは正に
『階級の敵』
という言葉がぴったりでした。
彼らが汚い手足で、我々の清潔な街に来ることは、
何としてでも阻止せねばなりませんでした。」
――東ドイツ国境警備
隊員の回想より
1989年まで28年にわたって続いた
1962年5月29日 ケネディ大統領の45歳の誕生日
マリリンモンロー間もなく36歳 謎の死を遂げる2か月前の映像
ハッピーバースデイミスタープレジデント
フルシチョフはアメリカの裏庭 カリブ海に浮かぶキューバ
U2が建設中のミサイル基地を発見 発射台などがはっきりと映っていた
核弾頭と中距離ミサイルの運び込みを進めていた
アメリカはカストロのキューバが存在するという事態を
決して容認しないだろうと我々は確信していた。
しかし、もし、我々がキューバを失ったならば、
それが共産主義に対する手痛い打撃になり、我が国の威信は失墜する。
我々はカリブ海へのアメリカの介入を効果的に食い止める措置を
講じなければならなかった。
その答えがミサイルだった。
我々のミサイルは、西側が好んで口にする
力の均衡の釣り合いを取ってくれると思われた。
アメリカは我が国を軍事基地で包囲し、核兵器で脅かしているが、
敵のミサイルが自分に向けられていればどんな気がするか、
今や彼らが知るべき時だった。
――フルシチ
ョフの回想より
ケネディはキューバの周辺海域の封鎖を指令
キューバへ向かう船の臨検が始まった
世界に展開するアメリカ軍は警戒態勢に
キューバでは全軍に動員令 戦闘態勢に突入
食糧の買い出しで混雑するアメリカのスーパー
ソ連が撤去に同意するまで世界は核戦争勃発の危機に直面した
キューバ危機
「…大統領の表情はひきつり、目は苦悩のため、ほとんど灰色に見えた
。
彼は、戦争を引き起こす色々な誤算について語った。
我々が戦いたくないのと同様、ソビエトも戦いたくないのだ。
彼らは我々との戦争を望まないし、我々も彼らとの戦争を望まない。
しかもなお、ここ数日来の出来事が今後も続けば、
戦いは全人類を巻き込み、世界を破壊してしまうだろう。
大統領を一番悩ませ、戦争の見通しを恐ろしい物にしたのは、
アメリカと、全世界の子供たちが死んでいく幻影であった…。」
――ロバート
・ケネディの回想より
戦争を抑止するという名目で米ソは核軍拡の道を歩んできた
相手からの核攻撃を恐れるあまり先制攻撃をしかねない状況に追い込ま
れた
核の時代の平和 恐怖の均衡の上に成立した脆く淡い平和にすぎないこ
とを思い知らされた
大気圏内での核実験を禁止する条約を結んだ
1963年11月22日 ダラス
ケネディ暗殺
翌年フルシチョフ失脚
アメリカに譲歩し過ぎたことが原因の一つだとされている
アメリカはやがてベトナム戦争へ介入
米ソ両国は再び激しい核軍拡競争を展開することになる
部分的核実験停止条約が調印された1963年以降 1500回に上る回数の核
実験がなされたとみられている(放送当時までに)
アメリカ地下核実験
水素爆弾が海底を抉った
第2次大戦後東西両陣営の対立は深まった
アメリカは核の優位を保とうと核実験を繰り返した
1946年7月 ビキニで行われた戦後初めての原爆実験
これ以後60回以上繰り返した
1949年8月 ソ連も原爆実験に成功
アメリカに要る核兵器の独占が終わった
冷戦は核戦争の危険をはらむようになった
米ソは軍拡競争を推し進める
1950年代から60年代初め 核の脅威に支配された冷戦の時代を描く
第2次大戦後 アメリカは世界の超大国に
1950年代は黄金時代の始まり
気がかりなことは共産主義の動向
東ヨーロッパに次いで中国も共産化
1950年には朝鮮戦争も
反共宣伝映画 共産主義者の征服計画
1952年 大統領選挙
ドワイト・アイゼンハワー 第2次世界大戦時の連合軍最高司令官
共産主義に対抗することを主張し第34代大統領に
我々に敗北主義の考えは無用です。
クレムリンの支配者は超人ではない。
彼らが理解できるのは力という言葉だけです。
――アイゼンハワー大統領就
任演説より
アメリカが頼りにした力 核兵器
さらに威力の大きい水爆の開発にも力を注いだ
1952年11月1日
中部太平洋 エニウェトク環礁での初めての水爆実験
65トンの水爆装置
広島に落ちた原爆の550倍 島を粉々に砕いた
水爆実験から6日後のモスクワの赤の広場
ロシア革命35周年式典
30年にわたってソ連の最高権力者だったスターリン
資本主義陣営に対抗し重工業や軍事力の増強を進めていた
レーニン廟の上に並ぶソ連の指導者達
ニキータ・フルシチョフ
スターリンの死後ソ連の首相になったフルシチョフ
6年後 突如失脚
秘密警察に監視されながらモスクワ郊外ペトロボ・ダーリネエ村で余生
を過ごした
彼の死後その別荘を取り壊し生活の痕跡を消した
(フルシチョフの娘 ラーダ・アジュベイ)
70歳ごろのフルシチョフ 家族が映像にとどめていた
晩年は自分の政治家としての功績を記録に残そうとしていた
テープレコーダーに録音していた
スターリンは、アメリカを初め、資本主義諸国がソビエトを
攻撃するだろうと恐れていた。
彼がどんなに震えおののいていたことか。
戦争となれば、我が国がアメリカより弱いと知っていたのだ。
アメリカは強力な空軍を持っていたし、何よりも重要なことに、
多数の核兵器を持っていた。
それに対して我が国は、やっと原爆を開発したばかりで、
完成した原爆はまだわずかしか無かった。
この状況はスターリンに重くのしかかっていた。
彼は臆病なほど震え上がり、我々の技術的努力の全てを
核兵器の開発に振り向けるよう命じたのである。
――フルシチ
ョフの回想より
核秘密都市 クルチャトフ
現在のカザフスタン共和国
ソ連崩壊後初めて西側に映像が公開された
1953年8月12日 セミバラチンスク核実験場
ソ連初めての水爆実験
アメリカに遅れること9か月 核開発技術で追いついた
1953年3月 モスクワ
水爆成功のニュースを聞かず73歳でスターリン死去
記録映画 偉大なる別れ
スターリンは世を去った。
彼の死は恐ろしい悲劇のように思われた。
私は何か悪いことが後に控えているのではないかと恐れていた。
我々は非常に弱い立場になった。
アメリカは当時、ソビエトに対して攻撃的な政策を取り、
優越さを示す機会を絶対に逃さなかった。
アメリカの全力を挙げての攻撃が、今にも始まりそうに思われた。
――フルシチ
ョフの回想より
ソ連は西側との関係改善を求めるようになっていく
1953年2月1日 NHK テレビ本放送開始
1953年6月2日 イギリス女王エリザベス2世戴冠式
1953年9月12日 ケネディ上院議員 結婚
1953年9月12日 フルシチョフ 共産党第1書記就任
ドイツの首都 ベルリン
冷戦時代の東西の対立の一つの舞台
戦後ドイツは東西に引き裂かれた
ベルリンは東ドイツの中でさらにイギリスフランスソ連アメリカで分割
統治
西ベルリンとソ連の東ベルリンに分かれた
西側は西ベルリンを自由の砦として重視し多大な援助
資本主義のショーウィンドウとしての役割を果たした
その豊かさは東ベルリンの人を惹きつけた
高い賃金や豊富な物資を求め東から西に多くの人が流れた
アメリカからの援助をもらいに西ベルリンの食糧配給所に集まった東側
の人々
西側の食料援助には本当に助かりました。
東ベルリンで物を買うためには、朝8時には行列に並ばなければなりま
せん。
主婦は子どもたちの牛乳を買うために並びますが、
8時15分には全て売り切れてしまうのです。
今日は私も牛乳を飲むことが出来ました。
オレンジやチェリーを見たのも随分久しぶりでした。
私が最後にヨーグルトを食べたのは、もう半年も前のことです。
レバーに至っては、戦後8年間、一度も食べてないのです。
――東ベルリ
ン主婦の証言より
1953年6月 東ベルリン暴動
ブランデンブルグ門から赤旗が引きずりおろされた
私はもう、人々の熱狂を誰も止めることは出来ないと思いました。
群集はだんだん過激になっていきました。
秘密警察や政府の役人を見つけると、人々は容赦なく殴りつけたのです
。
その時でした。ソビエトの戦車が現れたのです。
何人かが石を投げつけ、ある人はキャタピラにパイプを突き刺しました
。
突然一斉射撃の音が響きました。
叫び声が幾つも上がり、広場は騒然としました。
なぎ倒された何人かが、血だらけになって、地面を転げ回っていました
。
――東ベルリン労
働者の証言より
ソ連軍は戒厳令を敷き暴動を力で鎮圧
ソ連の強硬な姿勢を始めて見せつけた
東西の対立はアジアでも
1950年に勃発した朝鮮戦争
アメリカと中国の介入で東西両陣営の間の戦争に
中国は数百万人の人民義勇軍を
アメリカは国連軍の中核になりこれに対抗
北緯38度線を境に一進一退の攻防
勃発の3年後に休戦
1954年2月 マリリン・モンローが韓国に駐留するアメリカ兵の慰問に
訪れた映像
27歳 ハリウッドのセックスシンボル
ダイヤモンドは女の子の親友
1955年7月 ジュネーブ首脳会談
ポツダム以来10年ぶりの東西首脳会談
アメリカからはアイゼンハワー大統領と反共主義者のダレス国務長官
ソ連からはフルシチョフ第1書記とブルガーニン首相
ドイツ統一問題や軍縮が話し合われる中フルシチョフは緊張していたが
アイゼンハワーが弱気に見えた
ソ連が西側代表団をジュネーブのソ連大使館に昼食に招いた時の映像
にこやかに酒をふるまうフルシチョフ
確かに我々は具体的な成果を挙げることが出来なかった。
しかし、我々が相手を恐れるのと同じように、
敵もまた、我々を恐れていると知って勇気付けられた。
我々は自分達が国際舞台で自立しうることを、名実ともに明らかにした
のである。
――フルシチ
ョフの回想より
セミバラチンスク核実験場 ソ連
ジュネーブ会談の年のソ連の水爆実験
新型の水素爆弾が投下
ソ連では最大の2メガトンの威力を見せ付けた
戦争はもはや不可能 核兵器は戦争を抑止するための力
ネバダ核実験場 アメリカ
原爆を使った軍事演習
1951年以降何度も行われた
爆発の瞬間、辺りは真空状態の様に感じられた。
全てが死に絶えたように静まり返った。
そして猛烈に明るい光。
僕はとっさに手で目を覆った。
だがまるでX線を浴びた様に指の骨が白く透けて見えた。
その後大音響と共に地面が激しく振動した。
耳を塞いでも轟音が響き、頭が破裂しそうだった。
空を見上げると巨大な火の玉が僕達ちょうどの真上にあった。
原爆を知るまで僕は健康的で無邪気な17歳の若者だった。
しかし爆発の瞬間、僕は悪魔の存在を想い以前の自分では無くなってし
まった。
この世は死の世界と幸福の世界からできている。それらは薄い膜で隔て
られている。
僕はその膜を突き破り、死の世界を覗いてしまったのだ。
僕達は爆発の後前進し、強い放射能の中に入っていった。
この演習からまもなくして、僕の髪は抜け始めた。
――原爆演習参加
兵士の回想より
アメリカの核実験に参加した兵士は25~50万人
現在もその多くは被ばくによる健康問題を抱えている
1954年3月 ビキニ被災事件
日本のマグロ漁船 第五福龍丸が水爆実験に巻き込まれ被ばく
1人が死亡
核開発が環境を破壊することに人類はようやく気付いた
人類は自らを破滅させる手段の開発にエネルギーを浪費している。
世界は二つの陣営に分割され、互いに相手を絶滅させるための準備を進
めているのだ。
しかし、戦争は避けることが出来る。
核の時代においては、平和共存こそが唯一の合理的選択なのだ。
――フルシチ
ョフの回想より
1956年10月 ブダペスト
民主化を求める10万人のデモ行進
フルシチョフが平和共存を唱えスターリン批判をしたことが東ヨーロッ
パ諸国を揺さぶった
政治改革を求めるデモはソ連からの独立へ発展
翌日ソ連軍とハンガリー軍が衝突
狂気と混乱が僕の周りを支配し始めた。
機関銃のバチバチという音。
あちこちの爆発音。
戦う人達の叫び声。
あらゆる音が、死を予感させた。
だが僕には、僕らは自由への扉に近づいているのだと感じられた。
翼が与えられ、空をも飛べるような気がした。
僕らは再び、ハンガリーの土の上で、ハンガリー人になることが出来る
のだ。
僕らは共産主義を望んではいなかった。
完全に独立した、自由なハンガリーを望んでいたのだ。
――ブタペス
ト市民の日記より
ソ連はブダペストから一時撤退
しかし大部隊が侵入し鎮圧
死者は少なくとも3000人
亡命者は20万人に上った
ソ連の強硬な姿勢は西側に非難された
東西の緊張が高まった
エルビス・プレスリー
1956年3月 エド・サリバン・ショーに出演 視聴率82%を記録
1958年3月 徴兵により陸軍に入隊
1957年10月4日 バイコヌール宇宙基地
スプートニク1号がR-7ロケットにより打ち上げられる
人類初の人工衛星打ち上げに成功
直径58センチ重さ80㎏ 96分で地球を1周した
これが核戦略でのソ連の優位を決定づけるものになる
1か月後ライカ犬を乗せたスプートニク2号を打ち上げ
500㎏以上もある大きな衛星
有人宇宙飛行に向けて進歩していることを物語った
アメリカの人工衛星は直径16センチ 重さ1.5㎏
スプートニクに遅れること2か月
1957年12月 ヴァンガード打ち上げ
結果は爆発して失敗
ソ連がアメリカより進んでいることを証明する結果となった
ソ連 軍事ミサイル秘密工場
現在のウクライナ共和国
スプートニクと同じ年
L12という大陸間弾道ミサイル ICBMの開発に成功
人工衛星の代わりに核弾頭を積めば直接アメリカへの攻撃も可能
スプートニクの成功=ICBMの成功
ソ連はこの後戦略ミサイル軍を新設し核ミサイルを中心にした国防戦略
を推し進めていく
一方アメリカではミサイルではソ連に負けているというミサイルギャッ
プの議論が巻き起こる
アメリカ国民は核攻撃の恐怖にとらわれるようになった
赤の広場 革命40周年記念式典
スプートニク成功の年
毛沢東やホーチミン、鄧小平など世界64カ国の共産党指導者を前にフル
シチョフはソ連の軍事的勝利を宣言
スターリンが帝国主義の敵を恐れていた頃よりは、我々ははるかに進歩
した。
スターリンの恐れはもはや我々にはなかった。
今や我々の敵が恐怖に震えおののく番だった
もちろん我々は最初に人工衛星を打ち上げた事実を、
最大限政治的に利用するつもりだった。
アメリカの軍国主義者に圧力を加え、我々に対する扱いを改めさせよう
と思った。
――フルシチ
ョフの回想より
この翌年フルシチョフはソ連首相にも就任
ソ連の最高権力を掌握した
社会主義陣営最大の問題はベルリン問題
西ベルリンにあった難民登録場の映像
東と西の行き来が自由だったこのころ東ドイツの人が続々と難民登録を
して西側世界へ出て行った 170万人が脱出
東側としては大量の労働力の流出
1959年3月 フルシチョフ東独訪問
西ベルリンは東ドイツの真ん中に空いた傷口
フルシチョフはこれをふさぐと約束
ベルリンの占領状態解消を提案
アメリカは西ベルリンの共産化につながると考え拒否
モスクワ クレムリン
フルシチョフは提案を撤回
我々は原爆も水爆を持っている。
軍事ミサイルも開発した。
もし愚か者が我が国や社会主義国を攻撃すれば、
我々はその国を地上から抹殺できる。
戦争は侵略者ばかりか、資本主義を滅ぼすでしょう。
――フルシチョフ議会
演説より
ホワイトハウス 大統領記者会見
ミサイルギャップの議論で国防費を増やすという提案に対して
もう言い飽きたことだが、
国防費だからといって予算の無駄遣いは許されない。
もう1セントも増やす必要はない。
我々の防衛力は物凄いものなのだ。
――アイゼンハワー大統領
記者会見より
秘密偵察機 U2
アメリカはソ連の上空をスパイ飛行しておりミサイルの実戦配備が進ん
でいないことを知っていた
ソ連 バイコヌール宇宙基地
1960年10月 実験中のミサイルが爆発炎上
戦略ミサイル軍司令官をはじめとする91名が犠牲
国家の最高機密として最近まで隠されていた
公開の演説で、我々はどんな距離の物体にもミサイルを命中させること
が出来る、
と言うのはいつも気持ちの良いものだった。
しかし実際は、我々のミサイルはまだ性能が不完全で、数も少なかった
。
我々は宇宙開発ではアメリカより進んでいたが、
核兵器の数ではまだ立ち遅れていた。
実験中のミサイルだけでは、アメリカにとって大した脅威にはならなか
ったのだ。
――フルシチ
ョフの回想より
ワシントン郊外 アンドリューズ空軍基地
アイゼンハワーは関係改善のために非公式にフルシチョフを招待
ソ連の首相がアメリカを訪問したのは初めて
両国の国家が吹奏され、21発の礼砲が鳴った。
私は体が震えた。
今や世界最大の資本主義国であるアメリカが、彼らの目から見るならば
、
疫病か何かのように忌まわしいものと思ってきた社会主義の本家本元の
ような
我が国の代表に対して、こうして敬意を表しているのだ。
――フルシチ
ョフの回想より
訪米の前日 ソ連のロケットは月面に到達していた
月に送ったのと同じ金属の記念品をアイゼンハワーに贈った
フルシチョフは2週間にわたってアメリカを回った
ニューヨークはバカでかくて、やかましくて、ネオンサインや自動車が
やたら多くて、
熱気がムンムンしていて息がつまりそうな街だった。
巨大な富と贅沢。その一方に恐るべき貧困が同居していた。
観光客が必ず見物するという世界一高いビルにも行ったが、
摩天楼などというものはどれも同じようなものだった。
ハリウッド 20世紀FOXスタジオで映画 カンカン の撮影を見学
カンカンという、この特殊な踊りについては何と言ったらよいだろう。
はっきり言ってしまえば、まったく淫らなものだ。
言い換えれば、
成人向け映画のようなものだった。
――フ
ルシチョフの回想より
ソーセージ工場や大農場なども視察し気さくにアメリカ人と接した
冷戦という氷は解け始めているという楽観的な見方
しかし 1959年7月モスクワ アメリカ博覧会での映像
当時アメリカ副大統領 リチャード・ニクソン
ニクソン「あなた達の方が優れているものも確かにある。
例えばロケット開発がそうです。宇宙探査のね。
しかし、例えばこのカラーテレビ。
これは我々の勝ちです。でも、とにかく我々双方のためには…
フルシチョフ「いやいや。いずれにせよ我々はあなた達を完全に追い抜いたん
です。ロケットでね。
ロケットの開発技術でね。これは譲れません。
ニクソン「いやぁ、ちょっと待ってください。これなんですよ。私が言いた
いのは。
おわかりですか?ここで使っているビデオテープというものは、
今ここで話している会話を即座に録画し、他に伝えることができるんで
す。
つまり、コミュニケーションが増える。
コミュニケーションが増えれば我々が学ぶこともあるだろうし、あなた達が学ぶ
こともあるでしょう。
あなたは何でも知ってますか?
フルシチョフ「私に知らないことがあるとすれば、あなたはどうなんです。
共産主義について何もご存知ない。ただ恐れているだけです。
我々の国ができてまだ42年も経っていない。
しかし、あと7年もしたら我々はアメリカと肩を並べることになるでし
ょう。
そしてアメリカを追い抜いていきますからね。
追い抜く時にはこうやってね、挨拶しようではありませんか。
バイバ~イ。」
一時和らいだ米ソ関係は1960年5月 U2が撃墜され再び緊張
U2パイロット F.G.パワーズ をとらえて公開裁判にかけた
アメリカはスパイ飛行の事実を否定したが証言を受けて一転 偵察飛行
を正当化し始めた
1960年は大統領選挙の年
共和党 リチャード・ニクソン VS 民主党 ジョン・F・ケネディ
ケネディ
「様々な調査を見れば、私はこう結論づけるしかないだろうと思って
います。
アメリカが10年前20年前のような、明るい未来を持った活力に満ちた
国であると、
もはや誰も思っていません。
その理由はソビエトが宇宙開発でリードしたため、世界中の人々が科
学の分野で
アメリカがナンバーワンかどうか、疑うようになったということです
。
我々は他の分野では進んでいるかもしれません。
しかし、宇宙科学という新しい分野では負けたのです。」
ニクソン
「さて、例えばここにケネディ候補のような人物がいて、
何度も何度もアメリカが宇宙開発で遅れていると言います。
ところが現実は、アメリカが28回の打ち上げに成功しているに対し、
ソビエトは8回成功したにすぎません。
彼がこのようなことを言うとき、アメリカの威信はどうなるのでしょ
うか。
当然、地に落ちてしまうでしょう。」
ケネディ
「私はやはりソビエトが宇宙開発では一番だと思います。
あなた自身負けを認めたではありませんか。
あなたはフルシチョフとの討論で、ロケットはソビエトが上だが、
カラーテレビでは我々の勝ちだと言ったはずです。
私はロケットの方がカラーテレビなんかよりずっと重要だと思います
が。」
――テレ
ビ公開討論より
1960年11月 第35代アメリカ大統領にケネディが就任 当時43歳
ニューヨーク 国連本部
フルシチョフは国連総会に出席
一人のキューバ人と初めて対面
前年キューバ革命を成し遂げた キューバ首相 カストロ
カストロは社会主義的な政策をより一層推し進めた
キューバの社会主義化はアメリカにとって大きな脅威
ソ連は宇宙開発でも新たな衝撃を与えた
1961年4月 世界で初めて有人飛行に成功
空軍少佐 ユーリー・ガガーリン
2時間足らずで地球を一周 地球に帰還
ソ連にとってまたとない宣伝材料に
フルシチョフの政治的立場はより一層強化された
涙するフルシチョフ
1961年6月 ウィーン会談
大統領就任早々フルシチョフと会談
懸案はベルリン問題
かつて提案した占領軍の撤退をフルシチョフは迫った
最後にケネディに会った夜、彼は非常に落ち着かない様子だった。
この時の彼の表情を、私は今でもはっきりと思い出す。
私はいささか気の毒な思いを禁じえなかった。
しかし、どうすることも出来なかった。
西ベルリンの問題は、健康な肉体に出来た腫れ物のように膨れ上がって
きていた。
この腫れ物を取り除くことが、今までよりも一層重要になっていた。
――フルシチ
ョフの回想より
首脳会談2か月後の8月13日 ベルリン
東西のベルリンを結ぶ道を閉鎖 ベルリンの壁の建設
西側には予期せぬ出来事
東西ベルリン間46㎞が封鎖され本格的な壁が建設されたが西側は戦争を
恐れ黙認せざる終えなかった
東側の人々は西側へ逃げようと国境警備隊の目をかいくぐった
西ベルリンにはいろんな自由がありました。
東にはない自由です。
西では行きたいところへはどこにでも行けたし、
考えることを自由に口に出せました。
最後のチャンスでした。
今日逃げなければ、一生ダメだと思ったんです。
私は何も持たず、命の危険さえ顧みず、
自由に向かって走り出していました。
――西側への脱出
者の回想より
窓から西側の路上に飛び降り逃げ出す人も
1964年10月にはトンネルを掘った人も
10か月で全長145mのトンネルを掘った 57人が脱出
壁を越えようとして射殺された18歳の少年の映像
「西側の軍隊がいつ攻撃してくるのか、とても心配でした。
だから、自分たちの役割は平和のための救済者だと確信していました
。
壁の向うから酷い言葉で罵る西側のデモ隊を見ると、それは正に
『階級の敵』
という言葉がぴったりでした。
彼らが汚い手足で、我々の清潔な街に来ることは、
何としてでも阻止せねばなりませんでした。」
――東ドイツ国境警備
隊員の回想より
1989年まで28年にわたって続いた
1962年5月29日 ケネディ大統領の45歳の誕生日
マリリンモンロー間もなく36歳 謎の死を遂げる2か月前の映像
ハッピーバースデイミスタープレジデント
フルシチョフはアメリカの裏庭 カリブ海に浮かぶキューバ
U2が建設中のミサイル基地を発見 発射台などがはっきりと映っていた
核弾頭と中距離ミサイルの運び込みを進めていた
アメリカはカストロのキューバが存在するという事態を
決して容認しないだろうと我々は確信していた。
しかし、もし、我々がキューバを失ったならば、
それが共産主義に対する手痛い打撃になり、我が国の威信は失墜する。
我々はカリブ海へのアメリカの介入を効果的に食い止める措置を
講じなければならなかった。
その答えがミサイルだった。
我々のミサイルは、西側が好んで口にする
力の均衡の釣り合いを取ってくれると思われた。
アメリカは我が国を軍事基地で包囲し、核兵器で脅かしているが、
敵のミサイルが自分に向けられていればどんな気がするか、
今や彼らが知るべき時だった。
――フルシチ
ョフの回想より
ケネディはキューバの周辺海域の封鎖を指令
キューバへ向かう船の臨検が始まった
世界に展開するアメリカ軍は警戒態勢に
キューバでは全軍に動員令 戦闘態勢に突入
食糧の買い出しで混雑するアメリカのスーパー
ソ連が撤去に同意するまで世界は核戦争勃発の危機に直面した
キューバ危機
「…大統領の表情はひきつり、目は苦悩のため、ほとんど灰色に見えた
。
彼は、戦争を引き起こす色々な誤算について語った。
我々が戦いたくないのと同様、ソビエトも戦いたくないのだ。
彼らは我々との戦争を望まないし、我々も彼らとの戦争を望まない。
しかもなお、ここ数日来の出来事が今後も続けば、
戦いは全人類を巻き込み、世界を破壊してしまうだろう。
大統領を一番悩ませ、戦争の見通しを恐ろしい物にしたのは、
アメリカと、全世界の子供たちが死んでいく幻影であった…。」
――ロバート
・ケネディの回想より
戦争を抑止するという名目で米ソは核軍拡の道を歩んできた
相手からの核攻撃を恐れるあまり先制攻撃をしかねない状況に追い込ま
れた
核の時代の平和 恐怖の均衡の上に成立した脆く淡い平和にすぎないこ
とを思い知らされた
大気圏内での核実験を禁止する条約を結んだ
1963年11月22日 ダラス
ケネディ暗殺
翌年フルシチョフ失脚
アメリカに譲歩し過ぎたことが原因の一つだとされている
アメリカはやがてベトナム戦争へ介入
米ソ両国は再び激しい核軍拡競争を展開することになる
部分的核実験停止条約が調印された1963年以降 1500回に上る回数の核
実験がなされたとみられている(放送当時までに)
アメリカ地下核実験
黒海沿岸 ヤルタ リバディア離宮 ロマノフ王朝の別荘
1945年2月 アメリカ ソ連 イギリスがヤルタ会談
アメリカ大統領 ルーズベルト
イギリス首相 チャーチル
ソ連指導者 スターリン
世界各地では第2次世界大戦中 戦後処理の駆け引きがすでに行われていた
1945年3月 西部戦線 アメリカイギリス連合軍はドイツ国境に迫る
アメリカはソ連に武器援助 東部戦線で破竹の勢い ドイツ敗北決定的
連合国首脳がヤルタ会談
1945年2月3日 サキ飛行場 ルーズベルト がんに侵されていた
世界の支配なんて簡単だ。
極東は蒋介石にやれば、アメリカの援助で中国を支配していくだろう。
太平洋? それは我がアメリカが頂く。
アフリカはインドルートの関係からイギリスにいく。
スターリンが欲しがっているのは、ソ連の安全保障だけだ。
もし私が彼に何でも与えて、その代償を求めずにおけば、
スターリンだって阿漕なことはしないはずだ。
――ヤルタ会談前のルーズベルトの発言
大掃除をするにはもう少しの時間がかかるが、ドイツはもはや負けだ。
これからの問題はソ連だ。
口を酸っぱくして説明をしても、アメリカ人にはこのことが分かってもらえないのだ。
--ヤルタ会談前 チャーチルの発言
私はスターリンと上手く歩調を合わせてやっていけると信じている。
私は理想主義者のチャーチルとよりも、私同様に現実主義者のスターリンとの方が
馬が合うので、我々の間で現実主義的な基盤の上で合意が成立することについては、
まず問題がないと思う。
――ヤルタ会談前 ルーズベルトの発言
スターリンは反共主義者のチャーチルを警戒
イギリスの同盟国となったからといって、イギリスの本質やチャーチルがどんな奴かを忘れてしまってはならない。
チャーチルというのは目を離したが最後、懐から1カペイカでも盗み取る男だ。
では、ルーズベルトはどうか。ルーズベルトはそんな男ではない。
――ヤルタ会談前 スターリンの発言
スターリン「ドイツに賠償を支払わせるために
工場、機械設備、鉄道車両をドイツから撤去すべきです。
ソ連は、ドイツの重工業および生産財の80パーセントを徴収します。
いずれにせよドイツを解体し、孤立した弱小の小国の寄り合い所帯にしてしまわなくてはならない。
チャーチル「イギリスの世論は賠償という考え方には反対です。
第一次大戦後ドイツに巨額の賠償を課した結果、今度の戦争を引き起こしたことを
忘れてはいないからです。
スターリン「なるほどヴェルサイユは失敗した。
しかしあれは、あなた方が現金払いを要求したからだ。
我々は生産財や原料といった現物を要求しているのだ。
チャーチル「そうかもしれん。が、しかしドイツという馬に
馬車を引かせようと思ったら、馬草くらいは残してやらなくっちゃあ。
空きっ腹じゃあ馬は動きませんぞ。
スターリン「いや、我々としちゃあ、その馬がくるりと向きを変えて
こっちを蹴ったりしないように監視してなくちゃならないんでね。
皆ドイツを警戒していた
降伏後イギリス ソ連 フランス アメリカによる分割占領が決まった
最大の争点ポーランド問題
我々にとってのポーランドは生死に関わる問題です。
歴史を通じてポーランドは、ロシアを攻撃するための通り道となってきたからです。
我々は、独立したポーランドが誕生することを望んではいますが、
それはあくまで、ソ連を守ることに役立たせるためでなくちゃならない。
――スターリンの発言より
ポーランドは常に大国の勢力の争いの場
ポーランド・ロンドン亡命政権
1943年四月 カチンの森で虐殺死体が発見 4年前にソ連の捕虜になったポーランド将校
ソ連はロンドンの亡命政権に対しポーランド国民解放委員会 のちのルブリン政権
7月末ワルシャワ ソ連が迫った
ロンドン亡命政権の地下組織 国内軍がいた
ソ連が国民軍に蜂起を呼びかけた
蜂起当初の日々は、志願する兵士も続々とあり、高揚した雰囲気に満ちていました。
誰も彼も、憎き侵略者と断固戦うのだという気概で高まっていました。
子供から老人まで、みんな隊列に加わってきました。
主な武器は火炎瓶で、それを戦車に投げつけました。
武器は不足していましたが、それでもみんなドイツ軍の武器を奪いながら、激しく英雄的に戦いました。
――ワルシャワ市民の回想より
国内軍はドイツ軍を追いつめたがソ連はワルシャワへの進撃を停止
ドイツ軍の報復が始まった
今日は美しい天気。なのに、やっぱり、爆撃が始まった。
悔しいが、これには味方は手が出ない。高射砲がないのだ。
それをいいことに、あの恥知らずの鬼どもは高度をグッと下げ、好きなだけ機銃掃射する始末だ。
イギリスかソ連の飛行機を絶えずじりじりと待ち受けているのに、いっこうダメ……。
私達の上を飛び回っているのは、ただ、ドイツの黒いカラスばかりなのだ。
――ワルシャワ市民の日記より
アメリカイギリスは国内軍への援助をスターリンに要請 しかし反応なし
蜂起した兵士と市民15万人以上が死んだ
国内軍降伏 直後ソ連軍が侵攻
ドイツ軍は敗退 ソ連軍はルブリン政権を伴い入城
ドイツの領土をポーランドが貰い領土を西に移動
ロンドン政権ではなくルブリン政権が主権を獲得
戦後ポーランドで選挙を行うことでまとまった
バルカン半島の話題に
1944年ソ連軍はルーマニアに次いでブルガリアを占領
チャーチルは警戒してモスクワへ飛んだ
スターリンとバルカン取引
私はスターリンに向かって切り出した。
「我々のバルカン問題を片づけましょう。
ソ連の軍隊は既にルーマニアとブルガリアに入っている。
一方、イギリスもバルカンの国々に利害関係を持っている。
我々がぶつかり合うことは避けましょう。
そこで提案しますが、
ルーマニアはソ連の優先権90%、一方、ギリシャはイギリスの優先権90%
と、したならば、貴方の意見はいかがですか?」
私は紙に書き留めて、スターリンの前へ押しやった。
……しばしの時間が過ぎた。
スターリンは青い鉛筆を取ると、「承認」というように、そこに一本の太い線を引いて返してよこした。
――チャーチルの発言
「第二次世界大戦回顧録」より
ユーゴスラビア&ハンガリー50:50
ブルガリア ソ連75%
イギリスにとってギリシャはインドへ続く航路の獲得のために大事だった
極東密約
ルーズベルトとスターリンが秘密会談
アメリカは太平洋戦争中
硫黄島 日本軍の激烈な抵抗でアメリカ軍の死傷者は2万人余り
損害を減らすため中立条約を結ぶソ連に参戦させたかった
ソ連はサハリン南部と千島列島の割譲 満州の鉄道などの利権を求めた
ルーズベルトは承認
一つだけ明確なことはなぜソ連が日本を敵として参戦するのか、
その理由をソ連国民に説明するのに困難を極めるであろうということです。
なぜ大きな紛争を抱えてもいない日本を敵としてソ連が戦争をしなくてはならないのか、
国民は理解できないでしょう。
{スターリンは見返りとして日本領だった樺太南部と千島列島の割譲、満州の港湾と鉄道の権益を要求しました。}
これらの条件が満たされるならば国民は対日戦争を国家利益に関わることなのだと納得し、
我々が参戦の理由を説明することもずっと容易くなります。
――スターリンの発言「ボーレン覚書」より
とにかくソ連の日本に対する参戦を取り付けたのだ。
大きい獲物に比べれば旅順も千島も小さい問題にすぎない。
これでヤルタで手に入れたいものはすべて手に入れることができた。
しかもそれほど大きな代償を支払わずにだ。
――アメリカ外交資料より
台湾は日本の植民地だった 1943年のカイロ会談で中国への返還が決定
朝鮮半島も日韓併合以降植民地 神社も各地に
独立を与えるがしばらくは連合国の信託統治
ヤルタ会談終了後東ヨーロッパへの進撃を再開
ハンガリー占領 ルーマニアとユーゴスラビアに共産主義政権
今度の戦争は、過去のどの戦争とも違った戦争なんだ。
どこの国であろうと、占領した領土に自分の社会体制を押しつける。
どこの国も、その軍隊が進撃出来る限りの範囲まで、その国の社会体制を押しつけるのだ。
その他の結果にはなりようもない。
スターリンの発言
――――――――――――――
シラス著「スターリンとの対話」より
ポーランドを占領したソ連軍は共産化を進めた 武器の没収
3月ロンドン亡命政権を逮捕
太平洋戦争は激しさを増した
ルーズベルト死去1945年4月12日 ソ連との関係に大きな変化をもたらすことに
ドイツ中部エルベ川でアメリカとソ連の両軍がであった
1945年4月25日 エルベの出会い
感激の握手を交わした 協力関係を示す最後の映像
1945年5月7日 ドイツ降伏
6年の戦争が終結
ソ連軍は東へ 対日参戦
アメリカでは副大統領 トルーマンが大統領に就任
私は、機密の書類を読んで事態の全貌が分かった。
ソ連は完全にポーランドを軍事占領しており、
いわゆるルブリン政権―ソ連側が作った傀儡政権に全面的支持を与えていたのだ。
ソ連はヤルタでの協定に従って行動していなかった。
これは、直ちに片づけなければならない問題だと、私は考えた。
――トルーマン回顧録より
トルーマン米大統領
「ロシア人は、ヤルタでの取り決めの一字一句を尊重しなくてはならない。
アメリカとソ連の関係においては、今後は、一方通行の恩恵はまかり通ることを許さないであろう」
モロトフ露外相
「私はこれまで、人からかかる口調で物を言われたことはありません」
トルーマン米大統領
「とにかく、約束を守ることだ。そうすれば、誰もこのように言う者はいなくなる」
――ポーランド問題についての会談
1945年7月 ヨーロッパへ向かうトルーマン
ポツダム会談に出席するため
アメリカ ニューメキシコ州で人類史上初の核実験
7月16日原爆完成
ドイツベルリン近郊 ポツダム
日本の無条件降伏を要求し戦後処理を決めたポツダム宣言はソ連との相談なしにイギリスとアメリカで決められた
ポツダムで、スターリンと直に会って私はソ連は無情な取引者であって、
常に自分だけ利益を得ようとするものであることを見抜いた。
ソ連の外交政策は、我が方の行き詰まりに乗じて利益を得ようと企むものであると明白となったのだ。
――ポツダム会談後 トルーマンの発言
1945年8月6日 広島
9日 長崎
同日 ソ連が満洲になだれ込んだ
サハリン南部と千島列島を占領
日本軍将兵57万5000人がシベリア抑留 6万人が死亡と推定
中国残留孤児などの悲劇を生んだ
8月15日 無条件降伏
北海道のソ連による分割占領をトルーマンは拒否
8月30日 厚木飛行場に連合軍最高司令官 マッカーサーが来た
北方領土以外はアメリカの独占統治
朝鮮半島は日本と違い南からアメリカ軍 北からはソ連軍が進撃
北緯38度線を境界線に分割占領
第2次世界大戦終結
アメリカ本土は戦争の被害をほとんど受けずに繁栄
帰ってきた兵士たちのために新興住宅地
都市が郊外に広がり高速道路の建設 自動車の大型化
若者文化が社会をリード
ブギウギが流行
ヨーロッパは廃墟の中で苦しんだ
ベルリンでは勝者による支配
私達は、恐れ続けてきた。
最初はゲシュタポ、その次にソ連軍に占領されたドイツでソ連に反対する言葉を喋ることを。
平和の笛から吹き鳴らされる音色は、私達の耳にはあまりに疑わしく聞こえる。
私達をどこか牢獄に閉じこめるための音楽にように聞こえる。
ソ連の影響下にある国々は皆、西側世界から切り離されている。
そして、この牢獄の扉の背後でそれらの国々の権力者と別の意見を持つ人々が次々に姿を消している……。
――ベルリン市民の日記より
東部の国土の23%を失い多数の難民 混乱の中130万人が死亡と推定
ソ連兵に暴行されるドイツ人の映像
ポーランド ソ連の軍事的圧力のもとで共産主義政権
産業の国有化 土地改革の測量
東ヨーロッパの大半がソ連の影響下
1946年3月5日 アメリカ ミズーリ州 チャーチルが鉄のカーテン演説
我々連合国の勝利の上に、暗い影が落ちている。
バルト海のシュテッテンから、アドリア海のトリエステまで
大陸を横切って鉄のカーテンが下りている。
――チャーチル「鉄のカーテン」演説
チャーチルの演説は、アメリカ、イギリスとソ連との間に不和の種をまき、
協力を一段と困難にする危険な行動だ。
チャーチルは戦争屋だ。彼は一人ではない。
イギリスだけではなく、アメリカにも彼の友人がいる。
チャーチルとその友人達は、不思議なほどヒトラーとその一味に似通っているではないか。
――スターリンの論文
「ソ連共産党機関紙より」
ソ連共産党の機関紙 プラウダで反論
ビキニ環礁 第2次大戦で使われた軍艦が集められ核実験 戦後初
ソ連に対して軍事力の誇示
東京では住宅不足と飢餓
各地の民衆は米よこせデモ
昭和21年5月 極東国際軍事裁判 東京裁判
23年に結審 A級戦犯7人が絞死刑
東と西に引き裂かれたベルリン
戦争直後から続く映画館
東西の境界線沿いにたくさん立てられプロパガンダが上映された
アメリカでは文学はサディズムと
ポルノを学ぶ場と化している
そして、こんな幼い時から
将来のギャングが養成されている
タクシーガールズは金のかかるパートナーだ
貧困が彼女たちをこういう行為にかりたてる
これらの生物も人類に属しているのだ
しかし、その動き方は、どんな動物とも異なっている
こういう文化はすべてアメリカから輸入されたものだ
――「これがアメリカだ」ポーランド映画
西側の流行を取り入れた若者を西洋かぶれと批判
対比されたのは共産党青年団
西は東側に無料で映画を見せる日を設けた
これがドレスデンだ。
街の80%は壊れたままだ。
市民は生活必需品に飢えている。
ドレスデンにあるのは共産主義のポスターばかりである。
一方、こちらはシュツゥットガルト。
ここにはポスターは無い。
そのかわり、店には商品があふれている。
これが、本当に自由な建設の成果である。
――映画「二つの都市」より
ドイツを分裂させていくことに
1948年6月西側で通貨改革 アメリカイギリスフランスとソ連では通貨が異なることに
古い紙幣は包装紙にされた
アメリカの経済力を背景に西側通貨の価値が上昇
東側からは通貨と労働力の流出が続いた
西側へつながる道路と鉄道をソ連が封鎖
電力も差し止め
今日の午前中から、ソ連軍は西側地区への電力の供給を差し止めた。
私達はラジオも無く、灯りも無く、炊事用の電気も無く、
コーヒーのためのお湯を沸かすことも出来ず、家に座り込んでいる。
夕方までにぜひともロウソクを調達しなければならない。
でも、どうやって買えばいいのか。
――ベルリン市民の日記より
不審の目で見られる一方だったドイツが、共産主義の犠牲者へと変わった。
ヒトラーのベルリンが自由の前哨基地ベルリンへと180度の転換をした。
そして、ドイツ人にとっては、アメリカを中心とする西側の占領軍が防衛軍に変わった。
ベルリン市民は、もはやアメリカ軍を占領軍といえる心境ではなくなったのである。
ついこの間まで、爆弾を雨あられと落としていたアメリカ空軍の飛行機が
食料や燃料や発電所まで運んできてくれたのだ。
――ベルリン封鎖の記録より
街路樹を切り倒してまきを蓄えた
美容院ではストーブでパーマを当てた
印刷所では人力で印刷機を回した
餓死の危機
西側は空から物資を運んだ ベルリン空輸
アメリカは1日250機を送った
アメリカの輸送力を前にベルリン封鎖の意味がなくなり解除
ドイツの東西分裂は避けられないものに
1949年5月 ドイツ連邦共和国 西ドイツ
10月 ドイツ民主共和国 東ドイツ
分断された村の日曜日 柵の両側から交流
1949年8月29日 ソ連原爆実験 成功
アメリカの一方的優位が崩れた
1949年10月1日 中華人民共和国成立
中ソ同盟 中国が共産主義陣営に
アメリカでは各地で反共デモ
ニクソン上院議員が国務省にソ連のスパイがいると発表
国家機密のフィルムが裏庭にあったと主張
機密漏えいの犯人としてアルジャー・ヒス
ヤルタ会談にアメリカ代表団の一員として参加していた
高級官僚から容疑者が出たことで反共主義が猛威を振るった
先頭に立った共和党上院議員 マッカーシー
政界だけでなく知識人も関門を受けた
ハリウッド 1947年ごろからストライキが頻発
共産主義の温床と保守主義者からみなされていた
査問官「いつどこで生まれたか?」
ゲーリー・クーパー「1901年、モンタナの生まれです」
査問官「職業は?」
ゲーリー「……俳優です」
査問官「共産主義を非合法とする案をどう思うか?」
ゲーリー「いい考えだとは思いますが、よくは分かりません。
私はマルクスなど読んだこともありません。
共産主義については、人から聞いた以外のことは分かりません。
しかし、好きにはなれませんでした」
――共産主義非合法化議案の公聴会記録より
映画俳優 ロナルド・レーガンも映像に登場
自由十字軍 共産主義陣営に対するラジオ放送への募金
反体制風な作風だといわれチャップリンはアメリカを追われた
1950年6月25日 朝鮮戦争勃発
ソ連製の戦車の北朝鮮は38度線を越え韓国を圧倒 ソウルを占領し南下
トルーマンは韓国援助を決定
世界はまたも大規模な戦争に突入
ニューヨークの港から兵士が出航
かつてと違いみんな悲しげ
9月15日 国連軍は朝鮮半島に上陸
10月25日 中国人民義勇軍が北朝鮮側に参加
大規模かつ長期化した持久戦に
1950年から3年余りで死者150万人
38度線の軍事境界線が分断の境界として固定化
ヤルタ会談 大国の論理による世界分割の始まり
世界は東と西に分かれ冷戦は朝鮮半島で熱い戦争に
朝鮮半島は分断されたまま
1945年2月 アメリカ ソ連 イギリスがヤルタ会談
アメリカ大統領 ルーズベルト
イギリス首相 チャーチル
ソ連指導者 スターリン
世界各地では第2次世界大戦中 戦後処理の駆け引きがすでに行われていた
1945年3月 西部戦線 アメリカイギリス連合軍はドイツ国境に迫る
アメリカはソ連に武器援助 東部戦線で破竹の勢い ドイツ敗北決定的
連合国首脳がヤルタ会談
1945年2月3日 サキ飛行場 ルーズベルト がんに侵されていた
世界の支配なんて簡単だ。
極東は蒋介石にやれば、アメリカの援助で中国を支配していくだろう。
太平洋? それは我がアメリカが頂く。
アフリカはインドルートの関係からイギリスにいく。
スターリンが欲しがっているのは、ソ連の安全保障だけだ。
もし私が彼に何でも与えて、その代償を求めずにおけば、
スターリンだって阿漕なことはしないはずだ。
――ヤルタ会談前のルーズベルトの発言
大掃除をするにはもう少しの時間がかかるが、ドイツはもはや負けだ。
これからの問題はソ連だ。
口を酸っぱくして説明をしても、アメリカ人にはこのことが分かってもらえないのだ。
--ヤルタ会談前 チャーチルの発言
私はスターリンと上手く歩調を合わせてやっていけると信じている。
私は理想主義者のチャーチルとよりも、私同様に現実主義者のスターリンとの方が
馬が合うので、我々の間で現実主義的な基盤の上で合意が成立することについては、
まず問題がないと思う。
――ヤルタ会談前 ルーズベルトの発言
スターリンは反共主義者のチャーチルを警戒
イギリスの同盟国となったからといって、イギリスの本質やチャーチルがどんな奴かを忘れてしまってはならない。
チャーチルというのは目を離したが最後、懐から1カペイカでも盗み取る男だ。
では、ルーズベルトはどうか。ルーズベルトはそんな男ではない。
――ヤルタ会談前 スターリンの発言
スターリン「ドイツに賠償を支払わせるために
工場、機械設備、鉄道車両をドイツから撤去すべきです。
ソ連は、ドイツの重工業および生産財の80パーセントを徴収します。
いずれにせよドイツを解体し、孤立した弱小の小国の寄り合い所帯にしてしまわなくてはならない。
チャーチル「イギリスの世論は賠償という考え方には反対です。
第一次大戦後ドイツに巨額の賠償を課した結果、今度の戦争を引き起こしたことを
忘れてはいないからです。
スターリン「なるほどヴェルサイユは失敗した。
しかしあれは、あなた方が現金払いを要求したからだ。
我々は生産財や原料といった現物を要求しているのだ。
チャーチル「そうかもしれん。が、しかしドイツという馬に
馬車を引かせようと思ったら、馬草くらいは残してやらなくっちゃあ。
空きっ腹じゃあ馬は動きませんぞ。
スターリン「いや、我々としちゃあ、その馬がくるりと向きを変えて
こっちを蹴ったりしないように監視してなくちゃならないんでね。
皆ドイツを警戒していた
降伏後イギリス ソ連 フランス アメリカによる分割占領が決まった
最大の争点ポーランド問題
我々にとってのポーランドは生死に関わる問題です。
歴史を通じてポーランドは、ロシアを攻撃するための通り道となってきたからです。
我々は、独立したポーランドが誕生することを望んではいますが、
それはあくまで、ソ連を守ることに役立たせるためでなくちゃならない。
――スターリンの発言より
ポーランドは常に大国の勢力の争いの場
ポーランド・ロンドン亡命政権
1943年四月 カチンの森で虐殺死体が発見 4年前にソ連の捕虜になったポーランド将校
ソ連はロンドンの亡命政権に対しポーランド国民解放委員会 のちのルブリン政権
7月末ワルシャワ ソ連が迫った
ロンドン亡命政権の地下組織 国内軍がいた
ソ連が国民軍に蜂起を呼びかけた
蜂起当初の日々は、志願する兵士も続々とあり、高揚した雰囲気に満ちていました。
誰も彼も、憎き侵略者と断固戦うのだという気概で高まっていました。
子供から老人まで、みんな隊列に加わってきました。
主な武器は火炎瓶で、それを戦車に投げつけました。
武器は不足していましたが、それでもみんなドイツ軍の武器を奪いながら、激しく英雄的に戦いました。
――ワルシャワ市民の回想より
国内軍はドイツ軍を追いつめたがソ連はワルシャワへの進撃を停止
ドイツ軍の報復が始まった
今日は美しい天気。なのに、やっぱり、爆撃が始まった。
悔しいが、これには味方は手が出ない。高射砲がないのだ。
それをいいことに、あの恥知らずの鬼どもは高度をグッと下げ、好きなだけ機銃掃射する始末だ。
イギリスかソ連の飛行機を絶えずじりじりと待ち受けているのに、いっこうダメ……。
私達の上を飛び回っているのは、ただ、ドイツの黒いカラスばかりなのだ。
――ワルシャワ市民の日記より
アメリカイギリスは国内軍への援助をスターリンに要請 しかし反応なし
蜂起した兵士と市民15万人以上が死んだ
国内軍降伏 直後ソ連軍が侵攻
ドイツ軍は敗退 ソ連軍はルブリン政権を伴い入城
ドイツの領土をポーランドが貰い領土を西に移動
ロンドン政権ではなくルブリン政権が主権を獲得
戦後ポーランドで選挙を行うことでまとまった
バルカン半島の話題に
1944年ソ連軍はルーマニアに次いでブルガリアを占領
チャーチルは警戒してモスクワへ飛んだ
スターリンとバルカン取引
私はスターリンに向かって切り出した。
「我々のバルカン問題を片づけましょう。
ソ連の軍隊は既にルーマニアとブルガリアに入っている。
一方、イギリスもバルカンの国々に利害関係を持っている。
我々がぶつかり合うことは避けましょう。
そこで提案しますが、
ルーマニアはソ連の優先権90%、一方、ギリシャはイギリスの優先権90%
と、したならば、貴方の意見はいかがですか?」
私は紙に書き留めて、スターリンの前へ押しやった。
……しばしの時間が過ぎた。
スターリンは青い鉛筆を取ると、「承認」というように、そこに一本の太い線を引いて返してよこした。
――チャーチルの発言
「第二次世界大戦回顧録」より
ユーゴスラビア&ハンガリー50:50
ブルガリア ソ連75%
イギリスにとってギリシャはインドへ続く航路の獲得のために大事だった
極東密約
ルーズベルトとスターリンが秘密会談
アメリカは太平洋戦争中
硫黄島 日本軍の激烈な抵抗でアメリカ軍の死傷者は2万人余り
損害を減らすため中立条約を結ぶソ連に参戦させたかった
ソ連はサハリン南部と千島列島の割譲 満州の鉄道などの利権を求めた
ルーズベルトは承認
一つだけ明確なことはなぜソ連が日本を敵として参戦するのか、
その理由をソ連国民に説明するのに困難を極めるであろうということです。
なぜ大きな紛争を抱えてもいない日本を敵としてソ連が戦争をしなくてはならないのか、
国民は理解できないでしょう。
{スターリンは見返りとして日本領だった樺太南部と千島列島の割譲、満州の港湾と鉄道の権益を要求しました。}
これらの条件が満たされるならば国民は対日戦争を国家利益に関わることなのだと納得し、
我々が参戦の理由を説明することもずっと容易くなります。
――スターリンの発言「ボーレン覚書」より
とにかくソ連の日本に対する参戦を取り付けたのだ。
大きい獲物に比べれば旅順も千島も小さい問題にすぎない。
これでヤルタで手に入れたいものはすべて手に入れることができた。
しかもそれほど大きな代償を支払わずにだ。
――アメリカ外交資料より
台湾は日本の植民地だった 1943年のカイロ会談で中国への返還が決定
朝鮮半島も日韓併合以降植民地 神社も各地に
独立を与えるがしばらくは連合国の信託統治
ヤルタ会談終了後東ヨーロッパへの進撃を再開
ハンガリー占領 ルーマニアとユーゴスラビアに共産主義政権
今度の戦争は、過去のどの戦争とも違った戦争なんだ。
どこの国であろうと、占領した領土に自分の社会体制を押しつける。
どこの国も、その軍隊が進撃出来る限りの範囲まで、その国の社会体制を押しつけるのだ。
その他の結果にはなりようもない。
スターリンの発言
――――――――――――――
シラス著「スターリンとの対話」より
ポーランドを占領したソ連軍は共産化を進めた 武器の没収
3月ロンドン亡命政権を逮捕
太平洋戦争は激しさを増した
ルーズベルト死去1945年4月12日 ソ連との関係に大きな変化をもたらすことに
ドイツ中部エルベ川でアメリカとソ連の両軍がであった
1945年4月25日 エルベの出会い
感激の握手を交わした 協力関係を示す最後の映像
1945年5月7日 ドイツ降伏
6年の戦争が終結
ソ連軍は東へ 対日参戦
アメリカでは副大統領 トルーマンが大統領に就任
私は、機密の書類を読んで事態の全貌が分かった。
ソ連は完全にポーランドを軍事占領しており、
いわゆるルブリン政権―ソ連側が作った傀儡政権に全面的支持を与えていたのだ。
ソ連はヤルタでの協定に従って行動していなかった。
これは、直ちに片づけなければならない問題だと、私は考えた。
――トルーマン回顧録より
トルーマン米大統領
「ロシア人は、ヤルタでの取り決めの一字一句を尊重しなくてはならない。
アメリカとソ連の関係においては、今後は、一方通行の恩恵はまかり通ることを許さないであろう」
モロトフ露外相
「私はこれまで、人からかかる口調で物を言われたことはありません」
トルーマン米大統領
「とにかく、約束を守ることだ。そうすれば、誰もこのように言う者はいなくなる」
――ポーランド問題についての会談
1945年7月 ヨーロッパへ向かうトルーマン
ポツダム会談に出席するため
アメリカ ニューメキシコ州で人類史上初の核実験
7月16日原爆完成
ドイツベルリン近郊 ポツダム
日本の無条件降伏を要求し戦後処理を決めたポツダム宣言はソ連との相談なしにイギリスとアメリカで決められた
ポツダムで、スターリンと直に会って私はソ連は無情な取引者であって、
常に自分だけ利益を得ようとするものであることを見抜いた。
ソ連の外交政策は、我が方の行き詰まりに乗じて利益を得ようと企むものであると明白となったのだ。
――ポツダム会談後 トルーマンの発言
1945年8月6日 広島
9日 長崎
同日 ソ連が満洲になだれ込んだ
サハリン南部と千島列島を占領
日本軍将兵57万5000人がシベリア抑留 6万人が死亡と推定
中国残留孤児などの悲劇を生んだ
8月15日 無条件降伏
北海道のソ連による分割占領をトルーマンは拒否
8月30日 厚木飛行場に連合軍最高司令官 マッカーサーが来た
北方領土以外はアメリカの独占統治
朝鮮半島は日本と違い南からアメリカ軍 北からはソ連軍が進撃
北緯38度線を境界線に分割占領
第2次世界大戦終結
アメリカ本土は戦争の被害をほとんど受けずに繁栄
帰ってきた兵士たちのために新興住宅地
都市が郊外に広がり高速道路の建設 自動車の大型化
若者文化が社会をリード
ブギウギが流行
ヨーロッパは廃墟の中で苦しんだ
ベルリンでは勝者による支配
私達は、恐れ続けてきた。
最初はゲシュタポ、その次にソ連軍に占領されたドイツでソ連に反対する言葉を喋ることを。
平和の笛から吹き鳴らされる音色は、私達の耳にはあまりに疑わしく聞こえる。
私達をどこか牢獄に閉じこめるための音楽にように聞こえる。
ソ連の影響下にある国々は皆、西側世界から切り離されている。
そして、この牢獄の扉の背後でそれらの国々の権力者と別の意見を持つ人々が次々に姿を消している……。
――ベルリン市民の日記より
東部の国土の23%を失い多数の難民 混乱の中130万人が死亡と推定
ソ連兵に暴行されるドイツ人の映像
ポーランド ソ連の軍事的圧力のもとで共産主義政権
産業の国有化 土地改革の測量
東ヨーロッパの大半がソ連の影響下
1946年3月5日 アメリカ ミズーリ州 チャーチルが鉄のカーテン演説
我々連合国の勝利の上に、暗い影が落ちている。
バルト海のシュテッテンから、アドリア海のトリエステまで
大陸を横切って鉄のカーテンが下りている。
――チャーチル「鉄のカーテン」演説
チャーチルの演説は、アメリカ、イギリスとソ連との間に不和の種をまき、
協力を一段と困難にする危険な行動だ。
チャーチルは戦争屋だ。彼は一人ではない。
イギリスだけではなく、アメリカにも彼の友人がいる。
チャーチルとその友人達は、不思議なほどヒトラーとその一味に似通っているではないか。
――スターリンの論文
「ソ連共産党機関紙より」
ソ連共産党の機関紙 プラウダで反論
ビキニ環礁 第2次大戦で使われた軍艦が集められ核実験 戦後初
ソ連に対して軍事力の誇示
東京では住宅不足と飢餓
各地の民衆は米よこせデモ
昭和21年5月 極東国際軍事裁判 東京裁判
23年に結審 A級戦犯7人が絞死刑
東と西に引き裂かれたベルリン
戦争直後から続く映画館
東西の境界線沿いにたくさん立てられプロパガンダが上映された
アメリカでは文学はサディズムと
ポルノを学ぶ場と化している
そして、こんな幼い時から
将来のギャングが養成されている
タクシーガールズは金のかかるパートナーだ
貧困が彼女たちをこういう行為にかりたてる
これらの生物も人類に属しているのだ
しかし、その動き方は、どんな動物とも異なっている
こういう文化はすべてアメリカから輸入されたものだ
――「これがアメリカだ」ポーランド映画
西側の流行を取り入れた若者を西洋かぶれと批判
対比されたのは共産党青年団
西は東側に無料で映画を見せる日を設けた
これがドレスデンだ。
街の80%は壊れたままだ。
市民は生活必需品に飢えている。
ドレスデンにあるのは共産主義のポスターばかりである。
一方、こちらはシュツゥットガルト。
ここにはポスターは無い。
そのかわり、店には商品があふれている。
これが、本当に自由な建設の成果である。
――映画「二つの都市」より
ドイツを分裂させていくことに
1948年6月西側で通貨改革 アメリカイギリスフランスとソ連では通貨が異なることに
古い紙幣は包装紙にされた
アメリカの経済力を背景に西側通貨の価値が上昇
東側からは通貨と労働力の流出が続いた
西側へつながる道路と鉄道をソ連が封鎖
電力も差し止め
今日の午前中から、ソ連軍は西側地区への電力の供給を差し止めた。
私達はラジオも無く、灯りも無く、炊事用の電気も無く、
コーヒーのためのお湯を沸かすことも出来ず、家に座り込んでいる。
夕方までにぜひともロウソクを調達しなければならない。
でも、どうやって買えばいいのか。
――ベルリン市民の日記より
不審の目で見られる一方だったドイツが、共産主義の犠牲者へと変わった。
ヒトラーのベルリンが自由の前哨基地ベルリンへと180度の転換をした。
そして、ドイツ人にとっては、アメリカを中心とする西側の占領軍が防衛軍に変わった。
ベルリン市民は、もはやアメリカ軍を占領軍といえる心境ではなくなったのである。
ついこの間まで、爆弾を雨あられと落としていたアメリカ空軍の飛行機が
食料や燃料や発電所まで運んできてくれたのだ。
――ベルリン封鎖の記録より
街路樹を切り倒してまきを蓄えた
美容院ではストーブでパーマを当てた
印刷所では人力で印刷機を回した
餓死の危機
西側は空から物資を運んだ ベルリン空輸
アメリカは1日250機を送った
アメリカの輸送力を前にベルリン封鎖の意味がなくなり解除
ドイツの東西分裂は避けられないものに
1949年5月 ドイツ連邦共和国 西ドイツ
10月 ドイツ民主共和国 東ドイツ
分断された村の日曜日 柵の両側から交流
1949年8月29日 ソ連原爆実験 成功
アメリカの一方的優位が崩れた
1949年10月1日 中華人民共和国成立
中ソ同盟 中国が共産主義陣営に
アメリカでは各地で反共デモ
ニクソン上院議員が国務省にソ連のスパイがいると発表
国家機密のフィルムが裏庭にあったと主張
機密漏えいの犯人としてアルジャー・ヒス
ヤルタ会談にアメリカ代表団の一員として参加していた
高級官僚から容疑者が出たことで反共主義が猛威を振るった
先頭に立った共和党上院議員 マッカーシー
政界だけでなく知識人も関門を受けた
ハリウッド 1947年ごろからストライキが頻発
共産主義の温床と保守主義者からみなされていた
査問官「いつどこで生まれたか?」
ゲーリー・クーパー「1901年、モンタナの生まれです」
査問官「職業は?」
ゲーリー「……俳優です」
査問官「共産主義を非合法とする案をどう思うか?」
ゲーリー「いい考えだとは思いますが、よくは分かりません。
私はマルクスなど読んだこともありません。
共産主義については、人から聞いた以外のことは分かりません。
しかし、好きにはなれませんでした」
――共産主義非合法化議案の公聴会記録より
映画俳優 ロナルド・レーガンも映像に登場
自由十字軍 共産主義陣営に対するラジオ放送への募金
反体制風な作風だといわれチャップリンはアメリカを追われた
1950年6月25日 朝鮮戦争勃発
ソ連製の戦車の北朝鮮は38度線を越え韓国を圧倒 ソウルを占領し南下
トルーマンは韓国援助を決定
世界はまたも大規模な戦争に突入
ニューヨークの港から兵士が出航
かつてと違いみんな悲しげ
9月15日 国連軍は朝鮮半島に上陸
10月25日 中国人民義勇軍が北朝鮮側に参加
大規模かつ長期化した持久戦に
1950年から3年余りで死者150万人
38度線の軍事境界線が分断の境界として固定化
ヤルタ会談 大国の論理による世界分割の始まり
世界は東と西に分かれ冷戦は朝鮮半島で熱い戦争に
朝鮮半島は分断されたまま
1945年8月 終戦に沸き立つアジアの人々
武装解除される日本軍
大東亜共栄圏が崩壊
アジアに権力の空白ができた
中国の毛沢東
ベトナムのホーチミン
インドのガンジー
祖国統一は私達の永遠なる夢です。
私達は外国の言葉ではなく、私達自身の言葉で
これから歴史を語らなければいけません。
――ガンジー語録より
列強諸国からの解放をアジアの人は待ち望んでいた
アジアの各国の独立への苦難を描く
インド門 ボンベイ 大英帝国の国王を迎えるために作られた
ジョージ5世 大英帝国国王
インドの皇帝であることを宣言しに来た
1911年 載冠披露式典 デリー
インド各地を収めていた マハラジャなど10万人が参列
マハラジャから貢物を受け取っていた
私が国王であることを知らしめるこの歴史的な日。
私はインドの民と共にあることをまことに喜ばしく思う。
私はインドの平和と安定を強く望み、
インドに与えられた権利と特権を守ることをここに約束する。
神よ、我がインドの民を守りたまえ。
――ジョージ5世の挨拶
イギリス人総督の虎狩
イギリス領南アフリカ連邦
イギリス貴族にヒョウの毛皮が献上
南アフリカでガンジーが弁護士として活躍
イギリスの支配下で苦しむ人の姿が映った
私はじろじろ見られていた。
駅員は私が有色人種であることを確かめると、
「ちょっと来い。お前は貨物車の方へ移るんだ。」と怒鳴りつけた。
私は一等車の切符を持っていると抗議した。
「駄目だ。お前は客車から出て行け。」
駅員は無理やり私の腕を掴み、荷物もろとも客車から放り出した。
身に凍みるような厳しい寒さだった。
私は腰掛けたまま、震えていた。
――ガンジー語録より
ガンジーの独立運動の原点となった
フランス領インドシナ ベトナム人がフランス人総督への抗議の手紙
フランス人は我々ベトナム人を常に嫌悪し、
我々を野蛮人とさえも考えていない。犬や豚同然と考えているのだ。
一方、ベトナム人はフランス人をあたかも雷の如く恐れている。
フランス人に道であったときも蹴られたり殴られたりしない様、
ただただ逃げ出すばかりである。
――ベトナム人の抗議文より
ベトナムの子供にお菓子をばらまく貴婦人
日本は19世紀末には朝鮮半島に進出
伊藤博文は 李王朝皇太子 イ・ウンの後見役となり日本に留学させた
1910年 韓国は日本に併合
1914年 第1次世界大戦が勃発
アジアから多くの若者が駆り出された
ベトナムから多くの若者が出兵 10万人以上
ベトナムから10万人近くの若者が海を渡り、戦場へと連れて行かれた。
フランス人はこれを優雅にも「兄弟の貢献」と呼ぶ。
しかし、ベトナムにとって、それは血と汗を流しながら、
寄生虫を太らせているようなものだ。
フランスの植民地支配によって潤うのは、
嘘吐き政治家や狡賢いアヘンの密売人だけである。
――新聞「ル・パリヤ」より 阮愛国(ホーチミン)が書いた記事
グエンアイコック
1919年パリ和平会議
アメリカ大統領 ウィルソンが民族自立を提唱 アジアの植民地へ期待を与えた
ホーチミンは彼に直訴状を渡そうとした
1920年代
フランス租界跡
租界は治外法権で守られていた
イギリス フランス アメリカ ロシア
当時の上海 東洋のパリ
租界の遊園地の回転ブランコ
回しているのは中国人労働者 クーリー
使用人を除いて中国人は入れなかった
祖国の惨状を見かねて 革命の父 孫文が立ち上がった
民主 民権 民政 三民主義を唱えた
外国支配からの脱却と民族自立を訴えた
列強は今、虎視眈々と中国を分割しようとしている。
しかし民衆はといえば、無知蒙昧で、
祖国の将来のことなど全く考えていない。
だから我が国は大国であるにもかかわらず、
列強にひれ伏し、外国人達にバカにされるのである。
我々は今こそ立ち上がらなくてはならない。
国民を苦しみから救い、国家の滅亡を防ぐのだ。
子孫を外国の奴隷としてはならない。
――興中会章程より 孫文
1917年モスクワ ロシア革命直後
植民地化のアジアの国に独立の機運が高まった
1924年革命を成し遂げたレーニンがなくなった時期にホーチミンが映像に初めて登場
第5回コミンテルン大会 世界に共産主義を広めるコミンテルンに参加
コミンテルンの秘密工作員
1920年代 広州
1924年コミンテルンは孫文から顧問団を招き軍事学校を設立
黄埔軍官学校
銃の打ち方を知らない兵士達 農村出身の青年
校長 蒋介石 36歳
政治部主任 周恩来 26歳
共産党勢力も革命軍に結集
毛沢東も入学試験の面接を務めた
ロシア革命が見事に成功したにもかかわらず、
中国革命は未だに名ばかりの革命にすぎない。
なぜだろうか。
それは強い革命軍がないからだ。
強い革命軍があってこそ、革命は成功するのだ。
諸君、君達は将来、必ずや革命軍の中核となるのだ。
革命の精神とは死を恐れないことである。
中国4億人の民を救うことが、諸君の使命なのである。
――開校式の訓辞より 孫文
黄埔軍官学校の校歌 今の台湾の国歌
蒋介石 わらじ履きでも不屈の精神で敵に立ち向かう ワラジ精神
インドシナの青年たち ホーチミンが送り込んだ 軍事顧問団の通訳としてきていた
卒業生はのちの国民党軍の主力部隊となった
多宗教国家 インド
ヒンドゥー教の祭り
1915年ガンジー帰国 マハトマ 偉大な魂
非暴力不服従
宗教問わずインドの人ならわかるシンボル
糸車 チャルカをシンボルとし自らの手で糸を紡ぐことを提唱した
インドの命運は糸車にかかっています。
イギリスの綿製品がインドに流れ込むようになって以来、
人々は糸車をしまい込みました。
それが、インドから繁栄を奪い去ったのです。
糸車はインド人の暮らしにとって、空気や水と同様に欠かせないもののはずです。
どうぞ、埃をかぶった糸車を取り出して、インドの糸を紡いで下さい。
イスラム教徒もヒンズー教徒も、みんなで糸を紡いで下さい。
――ガンジー語録より
インド国旗 ヒンドゥーイスラムその他の宗教を示す三色と中心にチャルカ
イギリス製品のボイコットに発展
1930年 塩の行進 78人から数千人に
抗議行動として海から塩をとった
塩の専売制をしいていた インド人は作ることを禁止されていた
イギリスは運動の停止を条件に会議にガンジーを呼ぶことを約束した
1931年8月 ボンベイから船でイギリスへ
船の上でも糸を紡ぎ続けた
1925年北京 孫文が亡くなった
直前まで国民会議の開催を訴えた
力を国民革命に致すことおよそ40年
その目的は中国の自由、平等を求むるに有り
40年の経験を積みて深く知る
この目的に到達せんと欲すれば
必ず すべからず民衆を喚起し 共同奮闘すべきこと
現在革命なお未だ成らず
およそ我が同志は三民主義を全うし
継続して努力に努め 以て完結を求めよ
――孫文の遺言より
共産党のストライキが外国人を追い出す運動へ
租界地の返還を求めイギリス領事館へ
国民党蒋介石には共産党が敵に思えた
共産党員一斉検挙
1927年4月 国民党による共産党の処刑
孫文の死で国民党と共産党が決裂
1931年9月 ロンドン ガンジーをチャップリンも歓迎
イギリス首相マクドナルド
ガンジー以外に87人の代表者を招待
ガンジーを87分の1の存在に
セント・ジェームズ宮殿で会議は行われた
マクドナルドの演説 ガンジーへの勝利宣言
完全自治を訴えたガンジーは孤立
インド総督に帰国後のガンジーを逮捕するように命じた
1935年4月 満州国皇帝溥儀来日
日本が大陸への勢力を拡大していった
多くの日本人が満洲へと移り住んだ
満州の映画スター 李香蘭 日本名山口淑子
朝鮮や中国からの労働者で南満州鉄道建設
軍部が暴走 日本が世界から孤立していった
満蒙は我が国の発展のためには、最も重要な戦略拠点であり、
それを確保することはアジアの平和につながる。
満蒙の農業生産は我が国の食料問題を解決し、
鉄・石炭などの資源は我が国の重工業の基礎を固める。
満蒙を我が領土とする以外に道はない。
それは正義なのである。
――満蒙問題私見より
関東軍参謀 石原莞爾
延安 共産党の構えた本拠地
毛沢東 1930年代後半 共産党の主導者の地位を気づいた
自給自足の生活をしていた
革命とは、客を招いてごちそうすることでもなければ、
文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。
そんなお上品でおっとりとした、雅やかなものではない。
革命とは暴力である。
一つの階級が他の階級を打ち倒す、激烈な行動なのである。
――毛沢東選集より
毛沢東の妻 江青
1937年 第2次上海事変 2か月後蒋介石と抗日統一戦線
日本は今、世界有数の強国であり、
その軍事力は我が国よりもはるかに勝っている。
しかし、中国にあって日本にはないものがある。
長期戦に備えられるだけの広大な国土と莫大な人口、
そして正義である。
したがってこの戦争は三つの段階をたどる。
第一段階
日本は奥地まで攻め入ってくるが、経済的に行き詰るだろう。
第二段階
日本は傀儡政権を作って対抗するが、
我が方のゲリラ戦によって消耗するであろう。
そして第三段階
十分な力を蓄えた我が方は、日本を追い出し、
戦争は終わるであろう。
――持久戦論より 毛沢東
1941年 太平洋戦争勃発
アメリカの視察団が延安を訪れた
日本は東南アジア各国を占領
東条首相ジャワ来訪 支配国オランダを追い出した正義の国として描かれた映画
インドネシアの指導者 スカルノ
私は日本を利用出来ると考えていた。
黙っていても、ぼろをまとっていた我々インドネシア人が、
日本軍のおかげで勇敢な兵士に変えてもらえるからだ。
いかに敵を待ち伏せるか、いかに這った姿勢で銃を撃つか、
ガソリンを満たした椰子の殻からどうやって手榴弾を作るか。
全て日本軍が教えてくれるのだ。
――スカルノ自伝より
映画 朝鮮同胞も戦列へ 彼らの多くが激戦地へ送られた
ベトナム カオバン省
1941年 ホーチミンは30年ぶりにベトナムへ帰ってきた
太極拳を若者に教えた 共同生活をしていた
ソ連のカメラマンによって撮影
ゲリラ戦術も教えた
ベトナム独立同盟 通称ベトミン結成
ひそかに独立の機会を待ち続けた
フランスは卑怯にも、我々の祖国を日本に引き渡した。
我が人民はこれまでフランスという海賊に水牛のように仕え、
今度は日本という海賊の奴隷になった。
ベトナムの二千万の人民は、このようなことに我慢出来ない。
革命の闘士よ、蜂起の旗を高く掲げよ。
祖国の聖なる呼びかけが、今、響き渡る。
1945年8月 原爆投下
第2次世界大戦終結
終戦後裁判に中国でかけられた将校 銃殺
欧米列強の軍隊がアジアに来た
終戦直後ホーチミンは独立宣言
しかしフランスが上陸
インド
ヒンズー教徒の指導者 国民会議派議長 ネルーが主導
イスラム教徒の指導者 イスラム教徒連盟議長 ジンナーが反発
中国
国民党総裁 蒋介石 8年ぶりに上海に 連合国首脳から主導者として認められていた
毛沢東は反発
蒋介石は戦争の間、山の中に引き篭もって
何一つしてこなかったというのに、今になって英雄を気取っている。
彼は今、勝利者という甘い果実を、独り占めにしようとしているのだ。
――毛沢東選集より
1946年中国内戦勃発
1946年フランス ホーチミンが独立交渉のためフランスへ
我々はフランスと対等な友人になりたい。
かつてのように、我々を搾取し利用した支配者としてではなくフランスに良き助言者となって欲しいのです。
──ホーチミンの演説より
フランスにとってホーチミンは植民地の代表にすぎなかった
ヨーロッパの戦後処理を巡る パリ平和会議
保養地 ビアリッツなど観光地を案内されるホーチミン
独立交渉まで1か月待たされた
フォンテンブロー城 協定書に独立の二文字を入れたかったが決裂
ベトナムへ帰るホーチミン パリでの三か月成果なし
インドシナ戦争勃発 フランスとベトナムの全力戦争
フランス軍がベトナムの首都ハノイへ 次々と制圧
ホーチミンは再びジャングルに ゲリラ戦以外抵抗の道はなかった
ゲリラ戦とはまず敵を精神的に追いつめることからはじまる。
平穏に食事をすることも、そして眠ることもできないように、
昼夜を問わず攻撃を仕掛けるのだ。敵に休息を与えてはならない。
どこにいても地雷を踏み、狙い打ちされる、
そんな恐怖感を敵に植え付けるのだ。
そうすれば敵はやがて疲れはて、最期には死滅する。
インドシナに送り込まれてくるフランスの兵士は、
やがて本国の家族へ宛てる手紙にこう書くようになるだろう。
ベトナムではありとあらゆる洞窟、ありとあらゆる茂み、ありとあらゆる沼地、
どこにいても死が待ち受けている、と。
アジア各国独立
1950年 インドネシア 初代大統領 スカルノ
1948年 北朝鮮 金日成主席
1948年 韓国 李承晩大統領
カンボジア国王 シアヌーク
1947年 インド カシミール地方
宗教間対立 イギリス軍は鎮圧できず撤退
両派の調停役としてガンジーが融和を説得
宗教は人と神、また、人と人を結びつけるものです。
ヒンズーとイスラムの問題は損得の問題ではありません。
愛と信頼の問題なのです。
ヒンズーとイスラムがインドの二つの目であるなら、
争いや揉め事は起きないはずです。
片方の目がもう一方の目より優れているなどとは言えないでしょう。
どうして人が、宗教の名において戦う必要がありましょうか。
――ガンジー語録より
分離独立の道を歩んだ
1947年 8月14日 イスラム教徒はジンナーを主犯としパキスタンを建国
1947年 8月15日 インド独立 初代インド大統領 ネルー
ガンジーはあくまで、インドを引き裂いてはならないと言う。
しかしイスラム教徒は我々がどんな妥協を示しても、
自分達の国家を作ると言ってその立場を譲らない。
インド各地で起きている血まみれの惨劇はエスカレートしていくばかりである。
インドは頭痛から解放されるために、敢えて頭を切り落とさなければなりない。
もはやガンジーのような中道の立場は非現実的である。
残念ではあるが、ガンジーは今、政治の中心からそれてしまっている。
――ネルー語録より
ガンジーは分離独立後も融和を説いた 1500万人の難民が
1948年1月31日 ガンジー暗殺 ヒンズー教徒の過激派青年
デリーでガンジーの葬儀
暗闇の中で苦悩しているのは、私だけなのでしょうか。
インドとパキスタンが分離独立すれば平和が戻ってくる、と皆は考えているのでしょう。
私は全く孤立してしまいました。
しかし、何と言われようとも、私は自分の思った通りを語らなければなりません。
インドの分裂は間違っています。
このような独立の行く末は闇に包まれることでしょう。
私には、はっきりと見えるのです。
――ガンジー語録より
1949年 北京 共産党が勝利 北京入城
国民党軍はアメリカに援助を打ち切られ台湾へ逃亡
上海から欧米諸国は脱出 外国支配の影が消えた
1949年10月 中華人民共和国 建国宣言
ベトナム ディエンビエンフー
四方を山に囲われた盆地 フランス軍は大要塞を築いた
対するベトミンは山頂に大砲を人力で引き上げる 人海戦術で対抗
中国から大量の武器援助を受けていた
フランスの要塞を視察する アメリカ副大統領 ニクソン 共産化に危機感 全面支援
フランスは1年半で全滅させると宣言
1954年3月 ベトミン 攻撃開始
予想だにしない山頂からの攻撃にフランスは防戦一方
戦いはまさに悪夢だった。
腰まで泥水に浸かった塹壕の中、我々は今すぐにでも
攻め込んできそうなベトミンを待ち受けていた。
彼らはいつも同じやり方だ。
まず、若い兵士が爆弾を抱えたまま突っ込んでくる。
続いて、手榴弾の嵐の中を狂気に満ちた兵士達がなたを持って襲い掛かる。
そして最後に、ベテランの兵士達が機関銃を乱射する。
ベトミンの攻撃は絶え間なく続いた。
我々は死を待つことしか出来なかった。
――フランス軍兵士の証言より
1954年5月 ディエンビエンフー陥落
1954年 ハノイに凱旋
共産主義勢力、ベトミンが戦争に勝ち、インドシナが赤く染まるようなことになれば、
やがて周辺地域も共産主義者に侵略され、真っ赤に染まっていくに違いない。
ソ連や中国は東南アジア全域の支配を目論んでいる。
我々は自由主義陣営は、このような共産主義の横暴を決して許してはならない。
今、対抗措置をとらなければ、数年後にはもっと恐ろしい結果を招く。
平和を勝ち取るために今、アメリカは敢えて危険を冒さなければならないのだ。
――アメリカ国務長官ダレスの演説より
現在のディエンビエンフー 戦車が残る
1955年 インドネシア バンドン会議 AA会議
アジアアフリカの指導者が東西どちらにも属さない第三勢力として結集
中国外相 周恩来
インド首相 ネルー
アジアはもう、受身ではありません。
黙って人の言うことを聞いたりもしません。
今日のアジアは力強い活気に溢れているのです。
我々は今さら、アジアを支配した国に憎悪の念を抱くつもりはありません。
これから先は兄弟として席を並べたい。
そう願っているだけなのです。
今でも世界が自分の言いなりになると思っている大国の論理。
アジアは断固これを否定します。
アジアの民は我々に相応しい輝かしい未来を
自らの手で切り開いていかなければならないのです。
――ネルー演説より/バンドン会議
アジアは戦禍に堪えない時が続いた
ベトナムはアメリカとのベトナム戦争
インドはパキスタンと2度全面戦争
中国に吹き荒れた文化大革命
武装解除される日本軍
大東亜共栄圏が崩壊
アジアに権力の空白ができた
中国の毛沢東
ベトナムのホーチミン
インドのガンジー
祖国統一は私達の永遠なる夢です。
私達は外国の言葉ではなく、私達自身の言葉で
これから歴史を語らなければいけません。
――ガンジー語録より
列強諸国からの解放をアジアの人は待ち望んでいた
アジアの各国の独立への苦難を描く
インド門 ボンベイ 大英帝国の国王を迎えるために作られた
ジョージ5世 大英帝国国王
インドの皇帝であることを宣言しに来た
1911年 載冠披露式典 デリー
インド各地を収めていた マハラジャなど10万人が参列
マハラジャから貢物を受け取っていた
私が国王であることを知らしめるこの歴史的な日。
私はインドの民と共にあることをまことに喜ばしく思う。
私はインドの平和と安定を強く望み、
インドに与えられた権利と特権を守ることをここに約束する。
神よ、我がインドの民を守りたまえ。
――ジョージ5世の挨拶
イギリス人総督の虎狩
イギリス領南アフリカ連邦
イギリス貴族にヒョウの毛皮が献上
南アフリカでガンジーが弁護士として活躍
イギリスの支配下で苦しむ人の姿が映った
私はじろじろ見られていた。
駅員は私が有色人種であることを確かめると、
「ちょっと来い。お前は貨物車の方へ移るんだ。」と怒鳴りつけた。
私は一等車の切符を持っていると抗議した。
「駄目だ。お前は客車から出て行け。」
駅員は無理やり私の腕を掴み、荷物もろとも客車から放り出した。
身に凍みるような厳しい寒さだった。
私は腰掛けたまま、震えていた。
――ガンジー語録より
ガンジーの独立運動の原点となった
フランス領インドシナ ベトナム人がフランス人総督への抗議の手紙
フランス人は我々ベトナム人を常に嫌悪し、
我々を野蛮人とさえも考えていない。犬や豚同然と考えているのだ。
一方、ベトナム人はフランス人をあたかも雷の如く恐れている。
フランス人に道であったときも蹴られたり殴られたりしない様、
ただただ逃げ出すばかりである。
――ベトナム人の抗議文より
ベトナムの子供にお菓子をばらまく貴婦人
日本は19世紀末には朝鮮半島に進出
伊藤博文は 李王朝皇太子 イ・ウンの後見役となり日本に留学させた
1910年 韓国は日本に併合
1914年 第1次世界大戦が勃発
アジアから多くの若者が駆り出された
ベトナムから多くの若者が出兵 10万人以上
ベトナムから10万人近くの若者が海を渡り、戦場へと連れて行かれた。
フランス人はこれを優雅にも「兄弟の貢献」と呼ぶ。
しかし、ベトナムにとって、それは血と汗を流しながら、
寄生虫を太らせているようなものだ。
フランスの植民地支配によって潤うのは、
嘘吐き政治家や狡賢いアヘンの密売人だけである。
――新聞「ル・パリヤ」より 阮愛国(ホーチミン)が書いた記事
グエンアイコック
1919年パリ和平会議
アメリカ大統領 ウィルソンが民族自立を提唱 アジアの植民地へ期待を与えた
ホーチミンは彼に直訴状を渡そうとした
1920年代
フランス租界跡
租界は治外法権で守られていた
イギリス フランス アメリカ ロシア
当時の上海 東洋のパリ
租界の遊園地の回転ブランコ
回しているのは中国人労働者 クーリー
使用人を除いて中国人は入れなかった
祖国の惨状を見かねて 革命の父 孫文が立ち上がった
民主 民権 民政 三民主義を唱えた
外国支配からの脱却と民族自立を訴えた
列強は今、虎視眈々と中国を分割しようとしている。
しかし民衆はといえば、無知蒙昧で、
祖国の将来のことなど全く考えていない。
だから我が国は大国であるにもかかわらず、
列強にひれ伏し、外国人達にバカにされるのである。
我々は今こそ立ち上がらなくてはならない。
国民を苦しみから救い、国家の滅亡を防ぐのだ。
子孫を外国の奴隷としてはならない。
――興中会章程より 孫文
1917年モスクワ ロシア革命直後
植民地化のアジアの国に独立の機運が高まった
1924年革命を成し遂げたレーニンがなくなった時期にホーチミンが映像に初めて登場
第5回コミンテルン大会 世界に共産主義を広めるコミンテルンに参加
コミンテルンの秘密工作員
1920年代 広州
1924年コミンテルンは孫文から顧問団を招き軍事学校を設立
黄埔軍官学校
銃の打ち方を知らない兵士達 農村出身の青年
校長 蒋介石 36歳
政治部主任 周恩来 26歳
共産党勢力も革命軍に結集
毛沢東も入学試験の面接を務めた
ロシア革命が見事に成功したにもかかわらず、
中国革命は未だに名ばかりの革命にすぎない。
なぜだろうか。
それは強い革命軍がないからだ。
強い革命軍があってこそ、革命は成功するのだ。
諸君、君達は将来、必ずや革命軍の中核となるのだ。
革命の精神とは死を恐れないことである。
中国4億人の民を救うことが、諸君の使命なのである。
――開校式の訓辞より 孫文
黄埔軍官学校の校歌 今の台湾の国歌
蒋介石 わらじ履きでも不屈の精神で敵に立ち向かう ワラジ精神
インドシナの青年たち ホーチミンが送り込んだ 軍事顧問団の通訳としてきていた
卒業生はのちの国民党軍の主力部隊となった
多宗教国家 インド
ヒンドゥー教の祭り
1915年ガンジー帰国 マハトマ 偉大な魂
非暴力不服従
宗教問わずインドの人ならわかるシンボル
糸車 チャルカをシンボルとし自らの手で糸を紡ぐことを提唱した
インドの命運は糸車にかかっています。
イギリスの綿製品がインドに流れ込むようになって以来、
人々は糸車をしまい込みました。
それが、インドから繁栄を奪い去ったのです。
糸車はインド人の暮らしにとって、空気や水と同様に欠かせないもののはずです。
どうぞ、埃をかぶった糸車を取り出して、インドの糸を紡いで下さい。
イスラム教徒もヒンズー教徒も、みんなで糸を紡いで下さい。
――ガンジー語録より
インド国旗 ヒンドゥーイスラムその他の宗教を示す三色と中心にチャルカ
イギリス製品のボイコットに発展
1930年 塩の行進 78人から数千人に
抗議行動として海から塩をとった
塩の専売制をしいていた インド人は作ることを禁止されていた
イギリスは運動の停止を条件に会議にガンジーを呼ぶことを約束した
1931年8月 ボンベイから船でイギリスへ
船の上でも糸を紡ぎ続けた
1925年北京 孫文が亡くなった
直前まで国民会議の開催を訴えた
力を国民革命に致すことおよそ40年
その目的は中国の自由、平等を求むるに有り
40年の経験を積みて深く知る
この目的に到達せんと欲すれば
必ず すべからず民衆を喚起し 共同奮闘すべきこと
現在革命なお未だ成らず
およそ我が同志は三民主義を全うし
継続して努力に努め 以て完結を求めよ
――孫文の遺言より
共産党のストライキが外国人を追い出す運動へ
租界地の返還を求めイギリス領事館へ
国民党蒋介石には共産党が敵に思えた
共産党員一斉検挙
1927年4月 国民党による共産党の処刑
孫文の死で国民党と共産党が決裂
1931年9月 ロンドン ガンジーをチャップリンも歓迎
イギリス首相マクドナルド
ガンジー以外に87人の代表者を招待
ガンジーを87分の1の存在に
セント・ジェームズ宮殿で会議は行われた
マクドナルドの演説 ガンジーへの勝利宣言
完全自治を訴えたガンジーは孤立
インド総督に帰国後のガンジーを逮捕するように命じた
1935年4月 満州国皇帝溥儀来日
日本が大陸への勢力を拡大していった
多くの日本人が満洲へと移り住んだ
満州の映画スター 李香蘭 日本名山口淑子
朝鮮や中国からの労働者で南満州鉄道建設
軍部が暴走 日本が世界から孤立していった
満蒙は我が国の発展のためには、最も重要な戦略拠点であり、
それを確保することはアジアの平和につながる。
満蒙の農業生産は我が国の食料問題を解決し、
鉄・石炭などの資源は我が国の重工業の基礎を固める。
満蒙を我が領土とする以外に道はない。
それは正義なのである。
――満蒙問題私見より
関東軍参謀 石原莞爾
延安 共産党の構えた本拠地
毛沢東 1930年代後半 共産党の主導者の地位を気づいた
自給自足の生活をしていた
革命とは、客を招いてごちそうすることでもなければ、
文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。
そんなお上品でおっとりとした、雅やかなものではない。
革命とは暴力である。
一つの階級が他の階級を打ち倒す、激烈な行動なのである。
――毛沢東選集より
毛沢東の妻 江青
1937年 第2次上海事変 2か月後蒋介石と抗日統一戦線
日本は今、世界有数の強国であり、
その軍事力は我が国よりもはるかに勝っている。
しかし、中国にあって日本にはないものがある。
長期戦に備えられるだけの広大な国土と莫大な人口、
そして正義である。
したがってこの戦争は三つの段階をたどる。
第一段階
日本は奥地まで攻め入ってくるが、経済的に行き詰るだろう。
第二段階
日本は傀儡政権を作って対抗するが、
我が方のゲリラ戦によって消耗するであろう。
そして第三段階
十分な力を蓄えた我が方は、日本を追い出し、
戦争は終わるであろう。
――持久戦論より 毛沢東
1941年 太平洋戦争勃発
アメリカの視察団が延安を訪れた
日本は東南アジア各国を占領
東条首相ジャワ来訪 支配国オランダを追い出した正義の国として描かれた映画
インドネシアの指導者 スカルノ
私は日本を利用出来ると考えていた。
黙っていても、ぼろをまとっていた我々インドネシア人が、
日本軍のおかげで勇敢な兵士に変えてもらえるからだ。
いかに敵を待ち伏せるか、いかに這った姿勢で銃を撃つか、
ガソリンを満たした椰子の殻からどうやって手榴弾を作るか。
全て日本軍が教えてくれるのだ。
――スカルノ自伝より
映画 朝鮮同胞も戦列へ 彼らの多くが激戦地へ送られた
ベトナム カオバン省
1941年 ホーチミンは30年ぶりにベトナムへ帰ってきた
太極拳を若者に教えた 共同生活をしていた
ソ連のカメラマンによって撮影
ゲリラ戦術も教えた
ベトナム独立同盟 通称ベトミン結成
ひそかに独立の機会を待ち続けた
フランスは卑怯にも、我々の祖国を日本に引き渡した。
我が人民はこれまでフランスという海賊に水牛のように仕え、
今度は日本という海賊の奴隷になった。
ベトナムの二千万の人民は、このようなことに我慢出来ない。
革命の闘士よ、蜂起の旗を高く掲げよ。
祖国の聖なる呼びかけが、今、響き渡る。
1945年8月 原爆投下
第2次世界大戦終結
終戦後裁判に中国でかけられた将校 銃殺
欧米列強の軍隊がアジアに来た
終戦直後ホーチミンは独立宣言
しかしフランスが上陸
インド
ヒンズー教徒の指導者 国民会議派議長 ネルーが主導
イスラム教徒の指導者 イスラム教徒連盟議長 ジンナーが反発
中国
国民党総裁 蒋介石 8年ぶりに上海に 連合国首脳から主導者として認められていた
毛沢東は反発
蒋介石は戦争の間、山の中に引き篭もって
何一つしてこなかったというのに、今になって英雄を気取っている。
彼は今、勝利者という甘い果実を、独り占めにしようとしているのだ。
――毛沢東選集より
1946年中国内戦勃発
1946年フランス ホーチミンが独立交渉のためフランスへ
我々はフランスと対等な友人になりたい。
かつてのように、我々を搾取し利用した支配者としてではなくフランスに良き助言者となって欲しいのです。
──ホーチミンの演説より
フランスにとってホーチミンは植民地の代表にすぎなかった
ヨーロッパの戦後処理を巡る パリ平和会議
保養地 ビアリッツなど観光地を案内されるホーチミン
独立交渉まで1か月待たされた
フォンテンブロー城 協定書に独立の二文字を入れたかったが決裂
ベトナムへ帰るホーチミン パリでの三か月成果なし
インドシナ戦争勃発 フランスとベトナムの全力戦争
フランス軍がベトナムの首都ハノイへ 次々と制圧
ホーチミンは再びジャングルに ゲリラ戦以外抵抗の道はなかった
ゲリラ戦とはまず敵を精神的に追いつめることからはじまる。
平穏に食事をすることも、そして眠ることもできないように、
昼夜を問わず攻撃を仕掛けるのだ。敵に休息を与えてはならない。
どこにいても地雷を踏み、狙い打ちされる、
そんな恐怖感を敵に植え付けるのだ。
そうすれば敵はやがて疲れはて、最期には死滅する。
インドシナに送り込まれてくるフランスの兵士は、
やがて本国の家族へ宛てる手紙にこう書くようになるだろう。
ベトナムではありとあらゆる洞窟、ありとあらゆる茂み、ありとあらゆる沼地、
どこにいても死が待ち受けている、と。
アジア各国独立
1950年 インドネシア 初代大統領 スカルノ
1948年 北朝鮮 金日成主席
1948年 韓国 李承晩大統領
カンボジア国王 シアヌーク
1947年 インド カシミール地方
宗教間対立 イギリス軍は鎮圧できず撤退
両派の調停役としてガンジーが融和を説得
宗教は人と神、また、人と人を結びつけるものです。
ヒンズーとイスラムの問題は損得の問題ではありません。
愛と信頼の問題なのです。
ヒンズーとイスラムがインドの二つの目であるなら、
争いや揉め事は起きないはずです。
片方の目がもう一方の目より優れているなどとは言えないでしょう。
どうして人が、宗教の名において戦う必要がありましょうか。
――ガンジー語録より
分離独立の道を歩んだ
1947年 8月14日 イスラム教徒はジンナーを主犯としパキスタンを建国
1947年 8月15日 インド独立 初代インド大統領 ネルー
ガンジーはあくまで、インドを引き裂いてはならないと言う。
しかしイスラム教徒は我々がどんな妥協を示しても、
自分達の国家を作ると言ってその立場を譲らない。
インド各地で起きている血まみれの惨劇はエスカレートしていくばかりである。
インドは頭痛から解放されるために、敢えて頭を切り落とさなければなりない。
もはやガンジーのような中道の立場は非現実的である。
残念ではあるが、ガンジーは今、政治の中心からそれてしまっている。
――ネルー語録より
ガンジーは分離独立後も融和を説いた 1500万人の難民が
1948年1月31日 ガンジー暗殺 ヒンズー教徒の過激派青年
デリーでガンジーの葬儀
暗闇の中で苦悩しているのは、私だけなのでしょうか。
インドとパキスタンが分離独立すれば平和が戻ってくる、と皆は考えているのでしょう。
私は全く孤立してしまいました。
しかし、何と言われようとも、私は自分の思った通りを語らなければなりません。
インドの分裂は間違っています。
このような独立の行く末は闇に包まれることでしょう。
私には、はっきりと見えるのです。
――ガンジー語録より
1949年 北京 共産党が勝利 北京入城
国民党軍はアメリカに援助を打ち切られ台湾へ逃亡
上海から欧米諸国は脱出 外国支配の影が消えた
1949年10月 中華人民共和国 建国宣言
ベトナム ディエンビエンフー
四方を山に囲われた盆地 フランス軍は大要塞を築いた
対するベトミンは山頂に大砲を人力で引き上げる 人海戦術で対抗
中国から大量の武器援助を受けていた
フランスの要塞を視察する アメリカ副大統領 ニクソン 共産化に危機感 全面支援
フランスは1年半で全滅させると宣言
1954年3月 ベトミン 攻撃開始
予想だにしない山頂からの攻撃にフランスは防戦一方
戦いはまさに悪夢だった。
腰まで泥水に浸かった塹壕の中、我々は今すぐにでも
攻め込んできそうなベトミンを待ち受けていた。
彼らはいつも同じやり方だ。
まず、若い兵士が爆弾を抱えたまま突っ込んでくる。
続いて、手榴弾の嵐の中を狂気に満ちた兵士達がなたを持って襲い掛かる。
そして最後に、ベテランの兵士達が機関銃を乱射する。
ベトミンの攻撃は絶え間なく続いた。
我々は死を待つことしか出来なかった。
――フランス軍兵士の証言より
1954年5月 ディエンビエンフー陥落
1954年 ハノイに凱旋
共産主義勢力、ベトミンが戦争に勝ち、インドシナが赤く染まるようなことになれば、
やがて周辺地域も共産主義者に侵略され、真っ赤に染まっていくに違いない。
ソ連や中国は東南アジア全域の支配を目論んでいる。
我々は自由主義陣営は、このような共産主義の横暴を決して許してはならない。
今、対抗措置をとらなければ、数年後にはもっと恐ろしい結果を招く。
平和を勝ち取るために今、アメリカは敢えて危険を冒さなければならないのだ。
――アメリカ国務長官ダレスの演説より
現在のディエンビエンフー 戦車が残る
1955年 インドネシア バンドン会議 AA会議
アジアアフリカの指導者が東西どちらにも属さない第三勢力として結集
中国外相 周恩来
インド首相 ネルー
アジアはもう、受身ではありません。
黙って人の言うことを聞いたりもしません。
今日のアジアは力強い活気に溢れているのです。
我々は今さら、アジアを支配した国に憎悪の念を抱くつもりはありません。
これから先は兄弟として席を並べたい。
そう願っているだけなのです。
今でも世界が自分の言いなりになると思っている大国の論理。
アジアは断固これを否定します。
アジアの民は我々に相応しい輝かしい未来を
自らの手で切り開いていかなければならないのです。
――ネルー演説より/バンドン会議
アジアは戦禍に堪えない時が続いた
ベトナムはアメリカとのベトナム戦争
インドはパキスタンと2度全面戦争
中国に吹き荒れた文化大革命